観能雑感
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第17回 響の会 宝生能楽堂 PM1:30〜
松田師の吹く道成寺を観るのが目的。 見所はざわざわと落ち着かない雰囲気。座席に着くと50代とおぼしき夫婦が占拠しており、チケットから中正面と正面席を間違えていることが判明。ここは中正面席であり正面席は向こうであると説明し、場所を指し示したが、礼もなければ侘びもなし。こういう輩の何と多いことか。 席は希望通りに行かず、柱の正面。小鼓方が隠れる位置。満席で、学生と思しき立ち見あり。
能 『花月』 シテ 清水 寛二 ワキ 宝生 閑 アイ 野村 萬 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 亀井 広忠(葛) 地頭 山本 順之
シテは緑の水衣、黄色の縫箔、紫の大口。この方、こんな声だったかと思う謡い振りで、安定を欠いた。謡の再構築中なのだろうか。内には悲しみを秘めてはいても、表面上は次々と芸を見せ、春の日差しの中浮き立つような華やかさが感じられてしかるべき曲だが、残念ながらまるでなし。地謡も停滞気味。ただ時間が経過して行った。 所の者のが花月に向かって言う、「今日は遅かったではないか」という一言が、二人の関係を暗示していて、面白いと思う。
狂言 『樋の酒』 シテ 野村 万蔵 アド 野村 扇丞、野村 萬
番組上は萬師が次郎冠者だったが、実際は扇丞師だった。 扇丞師にはいつもわざとらしさを感じてしまい、苦手であるが、今日は主の居ぬ間に酒を盗み飲んで舞謡い、ささやかな酒宴を催す使用人たちの様子が楽しく描き出されていた。
能 『道成寺』赤頭 シテ 西村 高夫 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛、則久 英志 オモアイ 野村 万蔵 アドアイ 小笠原 匡 笛 松田 弘之(森) 小鼓 飯田 清一(幸) 大鼓 柿原 崇志(高) 太鼓 小寺 佐七(観) 地頭 観世 榮夫
鐘釣り、滑車に紐を通すのに若干手間取ったが、後は滞りなく進行。 習ノ次第が重厚に、しかし内側でざわめいているような妖しさを秘めて鳴り響く中、シテ登場。次第を繰り返した。面は近江女。黒地油焔形文様縫箔は決まり装束。謡にただならぬ思いが込められているのは感じられるものの、表面的。乱拍子は常の型よりも舞台の廻り方が小さく感じられた(つまり短くなっているということなのだろうか)。緊迫感が凝縮され、掛け声の短い幸流の鼓と合っていたように思う。観世銕之丞師による鐘後見の見計らい良く、鐘入りは綺麗に決まった。中入後の間狂言のコミカルなやり取りは、緊張した場を和ませる大事なもの。 後シテは赤頭に元結を付けて登場。被いていたのは白い縫箔。祈りは類型どおりで柱巻きあり。幕内に飛び込み、ワキが留め、終曲。 飯田師は九州の方なので耳にする機会は少ないが、骨太で芯のある乱拍子だった。 どこにもこれと言って問題はないものの、シテの抱える様々な想いが伝わってくることのないまま終ってしまった。再演なのだから、何かしらの意図があってしかるべきと思われるが、それが感じ取れなかったのが残念。 道成寺、能としては大掛かりな仕掛けで目を引くが、鐘後見で、直接紐に触れることなく、兄弟子に後ろからしがみつく弟弟子の必死な様子も見所のひとつであると個人的には思っている。
前列の人が頭を頻繁に動かし、また座高が低いとも言えず、かなり気になった。さらにその前の人が頭を動かすからそれにつられてということようだが、中正面席に座るからには、見えない箇所が出てくるのは避けられないのである。
狂言で番組とは異なる配役であることを掲示すべきだったと思う。あったのかも知れないが、少なくとも私は気づかなかった。道成寺で小書により常の型とは異なるところがある旨パンフレットに記されていたが、小書が付けば常とは異なる箇所が生じるのは自明であり、どう異なるのかまでに言及しなければ意味をなさないように思う。 能の会では出演者の変更があっても告知されないままだったり、出演者の一部を欠いたまま演能が開始されたりすることがあるが、有料の会ではあるまじきことであるし、特に初めて観る人にとっては甚だ不親切である。他の分野でこのような事態に遭遇したことはない。普及と称してさまざまな試みがなされてあり、結構ではあるが、まず普段やっていることを、足元から見つめ直す必要があるのではなかろうか。
こぎつね丸
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