観能雑感
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| 2005年11月19日(土) |
シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2005 シルヴィ・ギエム最後の「ボレロ」 東京バレエ団全国縦断公演 |
シルヴィ・ギエム・オン・ステージ2005 シルヴィ・ギエム最後の「ボレロ」 東京バレエ団全国縦断公演 <Aプロ> 東京文化会館 PM3:00〜
ここ10年毎年行われているギエムと東京バレエ団の全国ツアー、その中で繰り返し踊られてきた「ボレロ」を今年で最後にしたいと申し出てきたのはギエム本人とのこと。日本で踊った回数は500回を越えるのではなかろうか。 チケットはプレオーダーで確保。予想どおり追加公演も出た。皆この機会を惜しんでいるのである。 3階席舞台側面上手側に着席。客席はほぼ満席。1階には補助席も出ていた。
『ギリシャの踊り』 振付: モーリス・ベジャール 音楽: ミキス・テオドラキス
Iイントロダクション IIパ・ド・ドゥ(二人の若者): 高橋 竜太、小笠原 亮 III娘たちの踊り IV若者たちの踊り Vパ・ド・ドゥ: 小出 領子、中島 周 VI ハサピコ: 吉岡 美佳、後藤 晴雄 VIIテーマとヴァリエーション ソロ:大嶋 正樹 パ・ドセット: 佐伯 知香、長谷川 智佳子、西村 真由美、吉川 留衣、乾 友子 フィナーレ: 全員
ギリシャの民族舞踊を土台に振付られた模様。しかしあえてギリシャ舞踊の動きは極力使用せず、その方が返ってギリシャ的であると観客に受け止められたというのは安易な伝統芸能の模倣がはびこる昨今、なかなか示唆に富んでいる。音楽はギターのような、ギリシャの弦楽器と打楽器が中心で、それ以外にピアノも使われていた。背景に一瞬ギリシャの海を思わせるブルーが広がるが、すぐに何もない空間へと変わる。女性は黒のレオタード、男性は黒ないし白のタイツというシンプルな衣装。 前列二人の女性が揃って前のめりで視界を遮られる。最初からこれで大分気落ちする。最後列でブロックの列端に座っていたので周囲を気にすることなく姿勢を変えられたのが救い。声をかけようかと思ったが、上演中はどうしても憚られる。不思議なことに女性の二人組みはどちらかが前のめりだともう一人も前のめりであることが多い。 のどかな雰囲気で時折降り注ぐ太陽の光を感じつつ、ゆるやかに進行。体温程度の生暖かい海水に浸かっているような気分だった。ソロの大嶋が力強く、魅惑的な踊りを見せて、一際大きな拍手を受けていた。
『小さな死』 振付: イリ・キリアン 音楽:W.A.モーツァルト
シルヴィ・ギエム、マッシモ・ムッル
ピアノ協奏曲ホ長調KV488、ハ長調KV467を使用。本来は男女6人で踊られる作品だが、今日はその一部であるパ・ド・ドゥのみ。 タイトルが示しているように、官能が重要なテーマであるが、二人の踊りからはそれとともに、理不尽な状況にありながらも必死に生きようとする人間の姿が感じられた。短くも凝縮された時間。モーツァルトのピアノ協奏曲にこんな官能的な響きが潜んでいたのかという発見もあった。
『ドン・ジョバンニ』 振付:モーリス・ベジャール 音楽:フレデリック・ショパン(モーツァルトの主題による) ヴァリエーション 1: 門西 雅美、西村 真由美、佐伯 知香 ヴァリエーション 2: 小出 領子 ヴァリエーション 3: 高村 順子、井脇 幸江 ヴァリエーション 4: 長谷川 智佳子 ヴァリエーション 5: 大島 由賀子 ヴァリエーション 6: 上野 水香 シルフィード: 吉川 留衣
ピアノとオーケストラによる『ドン・ジョバンニ』のパラフレーズ。ショパンがこんな曲を書いていのは知らなかった。ぜひ音楽として聴いてみたいと思った。 舞台にはドン・ジョバンニその人は登場せず、その存在が暗示されるのみ。女性たちは彼の気を引こうとしたり、互いにけん制しあったりを繰り返す。が、大道具係が通り過ぎていったのを契機に現実に引き戻される。 今ひとつつかみ所のない作品。踊りよりも音楽が気になってしまった。
『ボレロ』 振付: モーリス・ベジャール 音楽: モーリス・ラヴェル
シルヴィ・ギエム 木村 和夫、平野 玲、古川 和則、大嶋 正樹
私にとっては3度目の、そして最後のギエムのボレロとなる。最初に観たのは1997年。これは忘れえぬ貴重な体験となった。2度目は2001年。このときは前のめりによる被害で舞台が非常に観難く、印象は薄い。東京文化会館で舞台側面の座席に座り、自分よりも舞台に近い場所に座っている人が前のめりなのは、正に悲劇である。 舞台中央に深紅の巨大なテーブル、それを取り囲む三方に並べられた椅子。メロディであるソロ・ダンサーはテーブルの上、リズムのコールドは椅子に腰掛けている。一人で踊るメロディに引き寄せられるようにリズムが一人、また一人とテーブルに集まり、最後は全員集まって一気に頂点を迎える。 初めて観たギエムのボレロは、女神の誘惑に抗えない僕たちという印象だった。ベジャールは根源的な欲望を表現するのに長けていると思う。今回のボレロは、個人の解釈云々ではなく、音楽と、作品の振付を忠実にこなす踊り手がそこに在った。リズムにはほとんど目がいかず、ひたすらギエムの動きを追っているうちに、曲はクライマックスへと近づいていて、もうすぐ終ってしまうといういわば恐れの内に終了。この凝縮された時間を何と表現して良いのかわからない。ただ言えるのは、神聖と言っていいくらいの生命力を感じたということだけだ。とてつもない力が、その空間には漲っていた。終了間際、自分の右目から涙が流れているのに気付いた。大きなエネルギーを与えられたような気がした。 初めて彼女のボレロを観たとき、私は大きな決断をするか否かの狭間にあった。結論はほとんど出ていたものの、この舞台によって、背中を押してもらったと思っている。そして今回も、生きていくための力をもらった気がする。 踊りが終った瞬間、会場から低くうねるような音がし、それが歓声へと変った。二人の男性ダンサーに支えられてテーブルから身軽に降り立ち、拍手に答えるこの姿を、もう二度と観ることはないのだという寂しさを感じつつ、受け取ったものへの感謝を込めて、拍手を送り続けた。
こぎつね丸
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