観能雑感
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2005年06月25日(土) 法政大学能楽研究所 第6回試演能 新作能 草枕の再演―能劇化された漱石の詩 

法政大学能楽研究所 第6回試演能 新作能 草枕の再演―能劇化された漱石の詩  国立能楽堂 PM1:30〜

 『草枕』は法政大学能楽研究所創設50周年を記念し、同所所長の西野春雄氏作、浅見真州師作曲で2002年に初演。大学施設内での演能ということもあってか招待客のみへの公開であり、一般へむけての演能は今回が初めて。事前応募制で、何と無料。剛毅である。
 開場時間と開演時間を勘違いしており、開演数分前の到着となってしまった。中正面後列脇正面寄りに着席。見所はGS、GB席を除いて9割近く埋まっていた。年齢層は常の見所とそう変わらず、高い。
 新作能と呼ばれる作品を観る、初めての機会。

I 鼎談 漱石と能―新作能<草枕>をめぐって
馬場あき子
日置 俊次(青山学院大学助教授)
西野 春雄

 日置氏は日本近代文学を専門とし、漱石の研究も手がけられておられるとのこと。馬場氏を進行役として、漱石作品と新作能『草枕』について、話が進められた。今回観能にあたり、初演当時の批評等はあえて再読せずにおいた。予断を持ちたくなかったので。一方「草枕」を読んでみた。作品自体は面白く読めたけれど、これをどうやって能にするのか、また、能にしたいという動機はどのあたりに存在するのか疑問だったが、西野氏の話から直接の題材は漱石の新体詩「鬼哭寺の一夜」であることが明らかになる。そう言えばそうだったなあと、記憶を振り返りつつ、納得。他に華厳の滝に投身自殺した教え子の藤村操を偲んで作った詩、「水底の感」にも着想を得ているそう。漱石はイギリス留学時代、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフェリア」を見て以来、入水自殺にたいする謂わば思い入れのようなものを常に持っていたそうで、作品にも表れているとのこと。確かに「草枕でも確認できる。
 一方、漱石は謡を好んでいたが、その腕前は酷かったというような話もでた。こちらは割と有名なので、個別のエピソードになるほどと思いながら聞く。
 能『草枕』の登場人物は詩人と長良乙女の霊。「草枕」では画工であったが、美を理解し、求道する存在として詩人が適切であると考えた由。長良乙女は話の中で、伝説として語られる。二人の男から求愛されるがどちらとも決めかねて川に身投げする。しかし、作品中ではほとんど重きをなしていない。那美さんという、画工が滞在する地元の名士の家の娘の、周囲には不可解に移る行動の原因として、何代か前の娘が池に身投げしたという話の伏線として語られる程度。作品を読む限りではそう膨らませられるようなモチーフではなく、上記の新体詩を発展、展開させていく上での土台といった感じである。
 能の中では現代人として描かれる詩人は口語体、乙女の霊は文語体で語るよう意識したとのこと。できるだけ耳で聴いてすぐに理解できる言葉を意識したそう。
 最後に能の世界とは直接係わり合いのない日置氏に、新作能にたいする要望があればとの問いかけがあり、「能の決まりごとを知らなくても解るような内容のものがあったらいい」、というような返答であった。能『草枕』では、作曲は伝統的な手法を踏襲しているが、それを知っていても知らなくても、能は楽しめるのではないか、と自分は思っている。様式のない能は、はたして能と呼べるのであろうか。能装束に身を包み、能面をかけていればそれすなわち能というわけではあるまい。新作能とは一体何なのであろうか、また何故作られるのであろうか。能を能たらしめているものとは一体何なのか、と、そんなこと考えながら、約1時間の鼎談終了。

II 新作能 『草枕』
長良乙女の霊 浅見 真州
旅の詩人 野村 萬斎
笛 松田 弘之(森) 小鼓 幸 正昭(清) 大鼓 柿原 崇志(高)
地頭 浅井 文義

 次第で詩人登場。白鼠の羽織袴に格子の小袖。背に笠をかけている。この詩人、非人情(不人情ではない)を標榜して諸国を放浪している設定なのだが、どうも萬斎師の弊として、まず役者本人が前面に出てきてしまい、少なくとも自分には役柄どおりには見えなかった。何と言うか、ビジネスマンの通勤スタイルのまま登山に出かけていくような違和感あり。あたりを見回しつつ風景の描写をするが、残念ながら所作に合わせて視界が開けていくような気持ちにはなれなかった。囃子は古典作品と同様だが、役者の語り口は狂言方のもので、なんとなく馴染まないような気がした。初演では観世銕之丞師が演じたが、狂言方のほうが詞が生きるのではないかという意見があった由。個人的にはワキ方にこそ相応しい気がした。宝生欣哉師だったら、もっと世界に奥行きがでるのになぁと思いつつ観る。突然の雨に降られて雨宿りする態でシテ柱を背にして斜めに座った姿はよかった。雨が降る様子は囃子方が写実的に表現。三番叟の揉み出しの手を流用したとこのと。詩人は雨を避け、長良乙女ゆかりの寺で一夜を明かそうとする。やがて橋掛りに長良乙女の霊が登場。萌黄の小袖を被き見所の方を向いて少しずつ顔をあらわにするのだけれど、僅かに覗いた紅い口元の妖しい美しさに目が引き付けられる。やがて完全に姿を現すが、宝増という浅見家所蔵の面は、神秘的でいて妖艶。紅葉柄の縫箔に白地の唐織、かなり前に弛ませる形の壷折。鬘は両側に垂れ髪がある。この後、疲労のせいか数分間意識が薄れる。さすがに浅見師、姿、謡は申し分ないのだが、詩人との問答に、今ひとつ必然性がないためか、物語の中に入っていけない。長良乙女は成仏できずに苦しんでいるわけではなく、ただ詩人が「詩の心」を求めてこの地にやってきたことを喜び、自らの物語を語る。なぜ「詩の心」を求めている者には喜んで語るのか、不明。乙女の話はクリ、サシ、クセという古典的手法で進行、その後、「水底の舞」というイロエ掛りの舞が舞われる。序之舞に乗せた、常の水平運動よりも上下運動を意識した舞であった。水底をたゆたっているような、観ている側もともに水中にいるような感覚に捕われた。傑出した舞い手ならではの手腕。途中、オロシを挟んで盤渉に。水に関係した舞なので、そうなるのではないかと思っていたが、予想通り。笛の持つ叙情性が遺憾なく発揮され、目にも耳にも嬉しい時間であった。やがて夜が明け、すでに乙女の姿は消えていた。山寺の荒涼とした雰囲気を残して終曲。

 作品としての出来は決して悪くない。それどころか、よくまとまった佳作だと言える。しかし、物語そのものの弱さは如何ともしがたい。そもそも長良乙女の登場理由が曖昧で、わざわざ詩人の前に現れ、何故昔語りするのか、その点が不明瞭。本人が自分の過去に特別な思い入れがなく、また、例えば成仏したいという強い願望がないので、能の従来の手法を踏まえての登場の仕方では、説明しきれないのだと思う。霊は理由があるからこそ、姿を見せるのだから。ただ儚い春の夜の夢を描きたいのであれば、登場場面での詩人とのやり取りに工夫の余地があるのではないか。
 改めて、新作能は何故作られるのか、という命題と向き合う。表現手段が多数ある現在、何故敢えて能という形態を取るのか。この作品、能楽研究機関の記念行事として、漱石作品の中から題材を取り、能を作るという目的がまずあり、どうしても能という形態で表現したいという強い動機が、残念ながら見出せなかった。長良乙女と詩人の対話のぎこちなさも、そこに起因しているような気がする。

 途中退席する女性数名。本日萬斎師はタイトなスケジュールだったようで、一場物でお目あてはまだ舞台に残っていても、そうせざるを得ないのだと思われる。この種の方々にとって、ただ下居している役者は無価値なのであろう。
 他に、鼎談の最中、いきなり電子辞典を取り出し(キー操作音は消していない)、何やら調べ始めた高齢男性、トイレの列に平気で割り込んで行った高齢女性と、老いも若きもいろいろだなぁと思ったのであった。


こぎつね丸