観能雑感
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代々木果迢会 代々木能舞台 PM6:30
充実した演者に未見の曲、未知の舞台。当日を楽しみにしていた。 6時過ぎに会場に到着。文字通り住宅地に佇む舞台。入り口で靴を預けて座敷に入る。立ち働いていた人達は大学生だと思われる。舞台に正対する形で座敷があり、座布団が置かれ、各自好きな場所に座る。一つの部屋のようになっていたが、真ん中に通路があり、二つに区切ることができるようだった。能楽堂なら中正面席にあたるところは橋掛かりに正対。脇正面席にあたるところは芝生になっていて、屋外と室内の中間のような空間。後方には椅子席がしつらえてある。正面席にあたるところは埋まっていて、結局二つの座敷を区切る通路の席を選ぶ。前から3列目。舞台そのものも座敷も使い込まれていて、その中に身を置くと不思議と落ち着いた気持ちになった。 風邪を引き、熱っぽさが抜けず、夜風に当るのは良くないと思いつつもどうしても観たい舞台だったので、迷わず決行。
仕舞 『高砂』 小早川 修 『砧』 浅見 真高 『藍染川』 浅見 慈一 『小鍛冶』キリ 小早川 泰輝
不思議と心に留まらない仕舞が続く中、最後の曲には少年の初々しさが漂っていた。体が軽いためか飛返りが実に鮮やか。時分の花とはこういうものか。 解放された空間だから、構造によるものか、足拍子の響きは控えめ。
能 『通盛』 ツレ 鵜澤 久 シテ 浅見 真州 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛(番組未記載) アイ 石田 幸雄 笛 松田 弘之(森) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 助川 治(観) 地頭 浅見 慈一
『平家物語』、『源平盛衰記』を典拠に小宰相局と平通盛の別れと最後の様子を描く。井阿弥作を世阿弥が改作。修羅能としては特異な構成。
名乗り笛で僧が登場。阿波の鳴門で一夏を過し、平家追悼のため浦にやって来る。続いて後見が船の作り物を脇正面へ置く。篝火が付いているのはこの曲独自の設定のため。思えば、舞台上の時間が最初から夜である曲はそれほど多くはない。一声でシテ、ツレ登場。ツレは赤地の摺箔に唐織ではなく蘇比の摺箔壷折。面は若女のように見えた。立っていたときは少々不気味な印象だった面が、ツレが下居すると上品でたおやかな印象へと変わった。シテは絓水衣に腰蓑。棹を持つ。尉面の種類は判別できなかったが、朝倉尉だろうか。本舞台に入った後、ツレが船の前に下居し、シテはその後ろに立つ。ちょうど舞台の目付柱と座敷の柱に阻まれて、シテの姿はほとんど見えず、時折二本の柱の隙間から窺えるのみ。それでも「淡路の島やはなれえの」でシテが脇正面方向に向くと、一面の海原が広がり、真州師の面使いの巧みさに改めて感嘆する。老いて明日をも知れない身であるのに日々の暮らしに追われる有様を嘆いていたところ、僧に呼び止められ、巌の近くへ漕ぎ寄せる。僧の読誦に感謝しつつ、請われるまま、この地で舟から身投げした小宰相局の最後の様子を物語る。 進行する舞台の様子を見聞きしつつ、どうして小宰相局は自ら命を命を絶ってしまったのかとつらつら考えていた。跡を弔ってくれという通盛の願いを結局は聞き入れず、身重の体で入水したのは、何より生きることそのもに絶望してしまったのか。思えば、妻は実家に留まるのが常の時代、夫に付き従っているのはかなり異例なことのはずで、実家にも既に頼るべき伝手を失ってしまっていたのだろうか。 入水の有様を語りつつ、二人は舟から水面へと消えていく。ツレは後見座でくつろぎ、シテは中入。舟の作り物は引かれる。 間語で二人の馴れ初めの様子が語られる。石田師の言葉は、特に聴こうと意識しなくとも自然に耳に入って来る。ただ流れていってしまう語りも少なくない中、得難い資質。 出端で後シテ登場。緑地の長絹(法被ではなかったように思うが、この点は曖昧)片脱ぎ、厚板は紅地の秋草文様。大口は浅黄に細かい模様が織り込まれており、目を凝らして見たが、それが何なのか解らなかった。梨打烏帽子、黒垂、面は古色を帯びた中将。合わせるのが難しそうな装束どうしもかかわらず、こうあるべきと言わざるを得ない完璧な組合せに見えた。 脇座に座したツレと最後の別れを惜しみ、酒を酌み交わしている様子は、戦場で妻に隠れて会うという武将としては呆れた行為にも関らず(兵を率いる立場の者は、士気が下がるようなことは慎むべきである)、じっと妻を見やるシテの視線に、もうこの二人は二度と会うことはないのだと思うと、痛ましさに胸を突かれた。やがて弟の能登守が音高く呼ばわる声に我が身を恥じつつ、その場を立ち去る。ここからカケリに入るが、目付柱の横に立ったシテの面はその古びた様子ゆえか、左の頬に涙が伝っているように見えた。このカケリ、武将としての責任と妻への想いに引き裂かれそうな人間の苦悩をそのまま表現しているようで、ともすると形式的な動きが波打つ心の内を如実に表すことができるのだと思った。 続いて橋掛りで敵と刺し違える最後の様子を見せるが、このときばかりは通盛が、最高に凛々しく、雄々しく見えた。 やがて読経の声に導かれ、解脱し、シテの留拍子で終曲。
正直、時分にとっては共感するところの少ない内容である。けれど、シテの力量で揺れ動く心の動きを感じ取ることができた。この方の面使いの妙に間近に接することができたのは最大の収穫。 6人編成の地謡、健闘したと言うべきだが、曲趣を描ききるにはいまひとつ。特に前場が単調に感じた。 能楽堂以外で能を観るのは今回が初めて。謡や笛の音の印象はあまり変わらなかったが、残響がないためか、打楽器の印象は大分異なるものだった。短く、乾いた響きだった。
己の価値観から離れて、一瞬でも物語の世界の人物の心に近づく瞬間は、いわば忘我の状態で、常では得られない、幸せな時間である。
こぎつね丸
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