観能雑感
INDEXpastwill


2005年03月06日(日) 第77回 粟谷能の会

第77回 粟谷能の会 国立能楽堂 PM1:00〜

 心身ともに疲労困憊。もともと病的に肩がこる性質だが、ここ数日特に酷い。首から背中まで全て骨と化したように硬い。よく眠れず、頭痛あり。
 展示室で『立花家伝来能面能装束展』を見る。眼福。特に装束における妥協のない仕事振りは嘆息もの。現在では再現できないものも多かろう。技術の進歩とは何なのかをふと考える。
 中正面ほぼ中央脇正面寄りに着席。満席。

能 『卒都婆小町』
シテ 粟谷 能夫
ワキ 森 常好
ワキツレ 館田 善博
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 横山 貴俊(幸) 国川 純(高)
地頭 粟谷 菊生

 ワキの次第が実にしっかりとした位で、この後の長さを考えてしまった。こうして聴いてみると、この部分、実直な仏道希求の姿勢が明白で、老女物とは言え面白づくの能の様相を呈する本曲の、違った側面を垣間見た。
 習ノ次第でシテ登場。赤みの強い茶の縫箔で、紅無と言えども華やぎを添え、本性を暗示している。老女ではあってもすっきりとした立ち姿で、年齢を意識させない。詞章にあるように垢じみてはおらず、小奇麗な印象。ふと、この女性はひどく鋭い目をしているのではないかと思う。以下、シテ謡が続くのだが、姿形より声に齢を意識したのか、抑えた音量で、謡が全くと言っていいほど聞き取れない。理解できたのは詞章を暗記している人だけではなかろうか。謡本を持っている方々がとたんにそれを開き始めたのは、このことと無関係ではない気がした。ここは小町がすっかり落剥した我が身を嘆く場面であり、僧との問答がそれに続く。コトバが解ってこその面白さである。舞台芸術は観客の存在があって成立するものである。ただ解りやすくあればそれで良しなどと言う気はさらさらないが、自己にのみ意識が向き過ぎている気がした。
 一転して、「のう物賜べのうお僧のう」は声高く、狂乱の態。深草少将になってからはこれまでの鬱屈が嘘のよう、ある種清々しささえ感じた。「月こそ友よ通い路の」でテラした面は月光を浴び、喜びの表情を浮かべていた。思えば、他者からすれば正気の沙汰ではない百夜通いも、少将にとっては毎夜毎夜が辛くとも、心躍る時間だったのかもしれない。本当の辛さは目的が達成できなかった、その後に襲ってくるものであるから。物着の後のイロエも、痛々しさよりは心の浮き立ちを感じた。最後は、恋の喜びもそれが叶えられなかった恨みも何もかも一緒に交じり合い、空気と一緒になって薄まっていったような印象。成仏というよりは、思念が感じられなくなった状態とでも言おうか。
 従来の老女物という固定観念にとらわれず、一曲を作り上げようという意志が感じられたが、それが成功したかどうかはまた別問題。再演を待ちたい。
 地謡は時に絶叫調で、自分の好みではなかった。
 
 シテ、ワキが幕入りしてから、揚幕方面から怒声が響いたが、何だったのだろう。

狂言 『武悪』
シテ 野村 万作
アド 野村 萬斎、深田 博治

 深田師の太郎冠者、この難しい役に対峙しきれず敗れ去った印象。万作師の主が作り出した緊迫感に対抗できず、友情と忠義の板ばさみという深刻な状況に置かれている様子が伝わってこない。萬斎師、カマエが妙に前屈みで、年経た人の肉体を思わせた。この二人のやり取り、本来は極度の緊張状態の内に交わされるはずだが、見る前に結局殺人には至らないという流れを役者自身が醸し出してしまっていて、どうにも学芸会的。以下、退屈な時間になってしまった。

仕舞 『羽衣』  粟谷 菊生

能 『小鍛冶』白頭
シテ 粟谷 明生
ワキ 宝生 閑
ワキツレ 大日方 寛
アイ 石田 幸雄
笛 松田 弘之(森) 小鼓 観世 新九郎(観) 大鼓 垣原 崇志(高) 観世 元伯(観)
地頭 香川 靖嗣
 
 シテ、幕内からの呼びかけ、堂々として力強く、それでいて若々しさを帯びていた。鮮やかな紅縫箔に千歳茶の水衣、縫箔は胸の部分に文様がなく紅一色。黒頭、面は童子か。少年というよりは、青年に近い頃合の印象。ワキと向かい合った後姿に華やかさと清冽な神気が漂う。三段グセも良い緊張感を保って進行、日本武尊の東征の下りは、翻した袖が炎とも、それを薙ぎ払う剣とも見えた。今夜再び現れる旨告げ、来所で中入。シテが一ノ松でしばし佇んでワキが続くのを待つ時間があった。続いて稲荷神社の末社の神が登場し、これまでの経緯を述べる。
 正先に一畳台が出され、鍛冶場となる。太刀を鍛える行為の神聖さを閑師が体現、空気が引き締まる。さすが。
 早笛でシテ登場。白頭の小書どおり、全身白。半切は白地に金の文様が大胆に配され、厚板、法被も白地に金。白頭に狐戴。以前宝生で観た時よりも、狐が小さく感じた。面は白さ際立つ泥小飛出。年経た霊狐という印象。狐足と呼ばれる足音を立てず、小刻みに歩を進める独特の運足。続く舞働も狐足で行った。台に上る時も無音で飛び乗る。宗近と太刀を鍛え上げ、勅使に渡すと、長居は無用と雲に飛び乗り去って行く。いつ観ても爽やかな終曲である。
 後場に比べると型所がない地味な印象の前場だが、シテは隙なく、引き締めた。神秘的で力強いこの前場あってこそ、後の躍動感が生きるのである。好きな曲だが、このように良い舞台に出会えると、殊更嬉しい。
 地謡はこちらの方がすっきりまとまっていたように思う。

 曲が終った後、付けられた謡、全く聞き覚えがなく何なのだろうと気になったが、翌日サイトの掲示板で『東岸居士』であることが判明。それでは解らないはずである。ところで所謂付祝言と呼ばれるもの、追善の場合は何と呼ぶのであろうか。

 やはり係員が遅れてきた観客を随時案内してくるのは鬱陶しい。再考の余地、大いにあり。

 


こぎつね丸