観能雑感
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| 2004年09月25日(土) |
第20回 喜多流青年能 |
第20回 喜多流青年能 十四世喜多六平太記念能楽堂 PM12:00〜
たまには若手の能を観るのも良かろうと出かける。自由席なので開場とほぼ同時に入場。中正面脇正面寄り最後列に着席。見所はすでにかなりの人手。 諸事情で簡単な記述にとどめる。
仕舞 『松虫』 友枝 隼人 『花筐』クルヒ 金子 敬一郎
能 『女郎花』 シテ 大島 輝久 シテツレ 松井 俊介 ワキ 大日方 寛 アイ 深田 博治 笛 田中 義和(噌) 小鼓 幸 信吾(幸) 大鼓 柿原(高) 太鼓 小寺 真佐人(観) 地頭 粟谷 能夫
輝久師のシテは所見。本来の声の良さに加えて鍛えられた謡の声。艶やかに響かせるタイプのものではないところが個人的に好ましい。前シテは尉であることを意識してか、やや重くれた印象。 後シテ、青丹長絹片脱ぎ白大口、風折烏帽子、面は邯鄲男、凛々しい姿でこれならば都の女も恋焦がれるのもむべなるかなと納得。ツレの松井師は女性かと聞き違えるような声。何もかも線が細くてまだまだな印象。 シテの力量は十二分に理解できるのだが、曲に対しての思い入れがあったかは疑問。
狂言 『隠狸』(和泉流) シテ 高野 和憲 アド 石田 幸雄
列の端に座っていたので観客の出入りで落ち着かない。さらに年配の女性が私が座っているすぐ後ろに椅子の背をつかみつつ屈み込み、幾度となく引っ張られるように揺す振られる。すぐ背後に屈まれるだけでも相当に鬱陶しいのに、これではたまらない。揺れるたびに抗議する意味で振り向くのだが、一向に効果なし。時勘弁してほしかった。全く集中できず。そんな中でも石田師の言葉の歯切れの良さには感心。美しい日本語だと思う。高野師、好演と言っていいと思うが、一箇所狸を主に見せてはいけない場面で無造作に見える位置にあったように見えたのだが、気のせいか。腰に吊るされた狸のぬいぐるみ、後ろから見ると手足をそろえて眠っているように見えた。
能 『龍田』 シテ 塩津 圭介 ワキ 森 常好 ワキツレ 舘田 善博、森 常太郎 アイ 竹山 悠樹 笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 観世 元伯(観) 地頭 大村 定
有名な歌を引きつつ龍田明神の縁起を語った巫女は実は龍田姫そのものであり、自ら神楽を舞う。秋の女神の曲で、観たいと思っていた。今回初見。 結論から先に述べると、辛い時間になってしまった。シテに求心力が全くないので、舞台に集中したいのだけれど、ついつい他の事を考えてしまう。型どおりに動けば能には見えるが、それだけでは人の心は動かせない。謡を聴きつつ、シテのほんの僅かな動きから無限の空間、情感が引き出されるというのが能の醍醐味だと思っているが、その域には程遠い。まだ20歳と年若いので、そういうものなのかもしれないが、曲に対する共感、対峙する気持ちのようなものが一切感じられなかった。若い役者には何よりもまずそういう物を求めたいのだが。小さな型にはまり込んでしまうのには、余りにも早かろう。熱心に取り組んでいるということは感じるので、これからに期待。 常太郎師は視線が終始虚空をさまよい落ち着かず、下居姿も締りがない。若くとも板の上では皆等しく役者である。今後の精進を期待する。
仕舞 『烏頭』 谷 大作
能 『猩々乱』 シテ 井上 真也 ワキ 高井 松男 笛 松田 弘之(森) 小鼓 森澤 勇司(清) 大鼓 佃 良勝(高) 太鼓 助川 治(観) 地頭 友枝 昭世
ワキの持つ扇の柄はやはり素敵だと思った。青い地に銀で月や波が描かれている。 以前に同じ『猩々乱』で松田師の下り端を聴いたことがあり、その時は迫力がありすぎてどうも曲のイメージには合わないのではないかと感じたのだが、今回は常ならぬ者の到来のために、妖しい空間が形成されていく過程の只中に身を置いたようであった。続く乱は打ち寄せては返す波間のような音にただ耳を傾ける。終るのが惜しいと思ってしまった。小鼓、あまりにも鳴らなかった気がする。皮の調子が思わしくないのか。 シテは装束の助けもあって、波間に漂う妖精の雰囲気を出していたと思う。片足で立つところはその都度上体が揺れて、気になってしまった。
良い能とはなかなかに得難いものだと改めて思った1日だった。
こぎつね丸
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