観能雑感
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国立能楽堂普及公演 PM1:00〜
チケット争奪戦で玉砕したものの、有難いことに、一枚余分があるのでお譲りしたいと言って下さる方が現れて、めでたく観に行けることになった。感謝。 今週は喉とリンパ節の腫れとそれに伴う発熱、口唇潰瘍と不調続き。疲労の蓄積はこんな形で表出する。熱っぽい状態が続いているが、動けない程ではないので出かける。何と言っても楽しみにしていたのだ。 見所は満席。正面席前列中央あたりに着席。後列のご婦人方が声を出して謡本を読まれているのが気になる。
解説 『榊の枝と水仙花』 久富木原 玲
解説者は中世文学の研究者で、源氏が専門らしい。 まず『源氏物語』の『野宮』に関連する部分の説明。次に『源氏物語』における六条御息所と『たけくらべ』における美登利の共通点についての解説。どうやら『源氏物語』は1000年の時を越えて他の文学に影響を与えているということを言いたかったようだが、『たけくらべ』と比較する必然性がどのあたりにあるのかは謎。最後に「ギリシャで『オイディプス王』を演じて大絶賛された野村萬斎さんが本日のアイを勤められるのを楽しみにしています」と付け加えて終了。個人的な興味を解説の場で述べるのはいかがなものか。第一、本日のシテに対して礼を失すること甚だしい。
狂言 『鏡男』 (和泉流) シテ 野村 万之介 アド 野村 万作 小アド 石田 幸雄
訴訟を無事終え都を後にする男。何かみやげをと物色し、初めて見る鏡を買って帰る。自らの姿を映し出す鏡を前にした妻は、都から女を連れてきたと怒り出し、男を追い回す。 万之介師が朴訥として温かみのある夫を飄々と演じて好印象。人はいいけれどちょっと頼りない雰囲気の夫に対し、万作師の妻はいかにもしっかり者という様子。夫を迎えてまず口にした事が訴訟の行方というあたり、それを如実に反映している。鏡をめぐる珍騒動も重すぎず、かと言って徒に諧謔味に走ることなく、心地よく観ていられた。ほっとする時間だった。
能 『野宮』(喜多流) シテ 塩津 哲生 ワキ 工藤 和哉 アイ 野村 萬斎 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 曽和 正博(幸) 亀井 忠雄(葛) 地頭 香川 精嗣
正先に鳥居の作り物。柴垣は両側に沿うように配置。 シテの出、様々なものを引きずって、自然と歩みが遅くなってしまうかのように、少しづつ進んで来る。次第、「心の色はおのづから」でぐっと沈み、「千種の花に現れて」で高く張る。今思うと、後の展開はこの部分に凝縮されていたのだった。最初から本性を表出させすぎている気も若干したが、これは観ている私の意識によるところが大きいのだろう。脇正での僅かな面使いが、波立つ内面を巧みに表現。曲線的で、かなり生々しく女性を感じさせる増の、その時々の表情に見とれた。クリ、サシ、クセで在りし日のことを語る様子は誇らしげでもあり、懐かしささえ感じている様子。己の正体を明らかにした後の方が、全身を覆っていた気負い、警戒心のようなものが取れ、優しい印象になった。緊迫感を保ったまま中入。 間語り、危惧していた程ではなかったものの、無駄に仰々しい。だたの里人であるはずなのに妙に偉そうなのは、何よりも野村萬斎という個人が前面に出ている為か。 後シテ、半色長絹に緋大口。最初、前場の緊張感を持続しきれていないようにも感じたが、これは見る側の集中力が一端途切れてしまったせいかもしれない。車争いについて語るところは、今現実にその恥辱を受けているかのごとき臨場感があった。続く序ノ舞、予想していたよりは軽い位で進行。観ている内に、これは御息所にとって、解放の舞なのだと思うようになった。彼女の生涯は、抑圧と忍従に満ちている。皇太子の未亡人というその設定からして、これらを暗示しているようだ。身分と誇り高さゆえ、己の感情を押し殺し続け、表面上は制御できていても、行き場のない想いが己の意識とは裏腹に生霊となって現れるのは、何ともやるせない。そんな彼女が死して後、やっと自らを誰に気兼ねすることなく解放できたのだと、そんなことを考えていた。 鳥居に近づき手を沿え、内から外を眺めるところ、永遠の彷徨と救済との境界線に立っているような切迫した空気が漂う。鳥居の内側、御息所の背後には無限の闇が広がっていた。望みさえすれば成仏できる。それはすぐ手の届くところにある。しかし結局のところ、御息所は自らの意志で永久に彷徨い続けることを選択したように見えた。安息よりも、源氏との思い出を抱き続けていたいと。心ならずもそうなったのではなく、むしろ御息所にとっては望んだ結果なのだ。続く破ノ舞は、そんな自らの決意を確かめるかのごとく荒々しくも潔く、鳥居から足を踏み出し引き戻す有名な型は、言わば確認作業のようなものであった。 観る者にも非常に重苦しさを与える曲であるが、今日は不思議と爽やかさを感じた。シテの意図がどよのうなものであったかは知る由もないが、新鮮な驚きを得た、充実した一番であった。 地謡、シテの意を汲みつつすっきりと力強く、喜多流の良さを味わえた。 大五郎師の笛、序ノ舞、破ノ舞で途中はらはらするところはあれどもちきんと収める。今日の一番が成立し得たのも、過剰な思い入れを投影しない、ただそこに在る秋の空気のような笛あったらばこそだと思う。ただ、そろそろ限界が近づいているという感は否めない。今この時に、この笛を聴けるとは、何と幸福なのだろう。
こぎつね丸
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