観能雑感
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| 2003年11月23日(日) |
宝生会秋の別会能 第2日 |
宝生会秋の別会能 第2日 宝生能楽堂 PM12:00〜
大曲3曲に仕舞数番、狂言一番と、これまででもっとも盛りだくさんな会。見所は中正面の空席が目立つが8〜9割の入り。中正面後列正面席寄りに着席。
能 『雨月』 シテ 佐野 萌 シテツレ 佐野 登 ワキ 工藤 和哉 アイ 善竹 富太郎 笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 観世 豊純(観) 大鼓 上條 芳暉(葛) 太鼓 大江 照夫(春) 地頭 近藤 乾之助
本日の番組中もっとも遠いが、これまでに観たことのある唯一の曲。 作り物が地謡前へ置かれる。屋根が一部葺き残されているのが特徴的。 ワキは西行。角烏帽子に笠をかぶるとなんとなくくどい雰囲気になる。 ワキの呼びかけに作り物の中から答えるシテ。鬘桶に腰掛け、ツレは下居。シテの面は小尉か。宿を請う西行に対し歌の上ノ句を付けてくれたら泊めてもよいと答える老夫婦。姥は月が見たいので屋根を葺きたくないと主張し、尉は雨音を聞くために屋根を葺きたいと言う。以下、風流な問答が淡々と進行し、西行の付けた句はめでたく気に入られる。三人で同吟し、しみじみと味わうところだがツレの調子が合わず、やや趣に欠けた。それ以外のシテ、ワキのやりとりは寂々として良い。 下歌からクセにかけて砧が出てくるのはやや唐突だが、『砧』の影響もあるのだろうか。扇で落ち葉をかき集める所作は珍しい。 月や風音を味わい、夜も更けたからと休む三人。来序でシテ、ツレは退場。入れ違いにアイの末社の神が登場し、老夫婦の正体を住吉明神であると明かす。富太郎師、体格が良いので夢の中に現れる妖精めいた末社の神としては不利か。小舞は長く感じた。 後シテは住吉明神そのものでなく、神職に乗り移った態。なぜ神そのものを出さなかったのかは不明だが、作者の禅竹が世阿弥の『蟻通』を意識してのことだと考えられているらしい。『蟻通』は一場もので神自らがいきなり紀貫之を呼びとめるよりは宮守として出て来る方が自然だが、本曲では少々迂遠な気もする。ただ、あくまでも主眼は西行の和歌の力なので、この方が視点が分散されないのかもしれない。 シテの面は不明。舞尉か。金属めいた質感。茶の袷狩衣に大口。幣を扇に持ち替えて真之序ノ舞を舞う。憑依されているためか、どこか虚ろな様子。太鼓のノリがもうひとつであまり盛り上がらない。幣を捨てるところは憑依が解けた場面だが、あまり表出せず。ただの神職に返って静かに退場。 前場は風流談義、後場は神寂びた舞と渋さ際立つ曲で全てが淡々と進行。萌師の持ち味は出ていたのではないだろうか。曲趣からして大きく心を揺り動かされるといった態のものではないので、こういうあっさりした仕上がりで良いのだろう。 シテの退場時、橋掛り中間あたりで大きく拍手が出てしまい残念。神様もびっくりされたであろう。
狂言 『合柿』(大蔵流) シテ 大蔵 吉次郎 アド 大蔵 千太郎、宮本 登、善竹 大二郎、大蔵 義教、大蔵 基誠
宇治あたりの柿売りが都にやって来る。ちょうど柿を求めようとしていた男たちは呼び止め、試しにひとつ食べてみせろと言う。柿売りは止む無く言われたとおりにするが渋柿にあたってしまう。何とかごまかそうとするが口笛を吹いてみろと言われ、上手く吹くことができずに嘘が露見。売り物の柿を食べたのだから代金を払えと要求するが逆にさんざん打ち据えられてしまう。 合柿というのは渋柿を人工的に甘くさせたものだとか。当時からそういう知恵があったのだ。ただ失敗も多く、この柿売りのように渋柿にあたってしまう確立も高かったのだろう。実際に舞台で口笛を吹いて見せるのは珍しい。集団で殴られる柿売りが憐れで、最後はシテのしみじみとした述懐の舞で留めるが、後味はあまり良くない。客としては渋柿は買いたくないし、柿売りとしてはなんとか商売したいという、双方の相反する利害がぶつかっての出来事なのだろう。
仕舞 小歌 波吉 雅之 松虫クセ 朝倉 俊樹 巻絹クセ 中村 孝太郎 鳥追 小林 与志郎
となりの70代くらいの男性が足を揺すったり、体を動かしたりが鬱陶しくて、隣の席が空いていたため止む無く避難。手すりを完全に占領してしまうのはマナー違反なのだが、結構これで迷惑する事が多い。 地謡は中堅どころだがかなり不揃い。舞もあまり見るべきものがなかったが、その中では中村孝太郎師が良かった。
能 『松風』 シテ 寺井 良雄 シテツレ 殿田 謙吉 アイ 大蔵 彌太郎 笛 寺井 久八郎(森) 小鼓 幸 正昭(清) 大鼓 亀井 実(葛) 地頭 今井 泰男
喜阿弥の『汐汲』を世阿弥が改作。古曲名は『松風村雨』。観阿弥の関与も考えられるが定かではないらしい。『源氏物語』の「須磨」の段からの強い影響が見えるが、その『源氏』が在原行平の須磨行きにをモデルにしていると言われており、両者の相関関係が面白い。一曲を貫くのは古今集にある行平の「わくらはに問ふ人のあらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ」、「立ちわかれいなばの山の峰に生ふる松とし聞かば今帰り来ん」の歌2首。 正直、特に期待していなかったのだがシテが本舞台に入ってからは目が離せなくなってしまった。謡に情感に訴えかける力があり、丁寧な所作がさらにそれを際立たせる。目付で桶に塩を汲む所は狭い女面の視野にもかかわらずごく自然だった。場面が変わり小屋での僧と対面するところでは面使いが生き、哀しげな風情から狂乱して行くまでの変化が見事だった。面は恐らく節木増だと思うのだが、上品かつ憂いを帯びた様が悩ましいほど。形見の直衣(実際は長絹)と烏帽子に頬を寄せるところは驚く程に艶めかしく、それでいて切なさをも感じさせた。 松を行平と思い込み近付こうとするところでは雰囲気が一変、憑かれたかのような状態になる。ここでも謡の力でその変化を感じさせた。橋掛りから松をめがけて近付いてくるカケリ(?)のような所作を経て中ノ舞に入るが、常ならぬ状態であることを表すには必定だと思った。舞はこれまで観たことのあるどの中ノ舞よりも激しく昂ぶった様子で、これはしみじみとした思い出に浸っているのではなく、相手に激しく恋焦がれ、求める心そのものであり、肉体の疼きなのだと思いながら観ていた。流儀の主張に添うかどうかは解らないが、魅力的であることには間違いない。端ノ舞で松の近くを通り抜けるところは決して叶わない想いであることを見せ付けられた気がした。松をそっと抱きしめるような所作のなんと官能的なこと。 そんな姉の狂乱を見ている妹村雨はどんな気持ちだったのだろうか。大変下世話な喩えで恐縮だが、酔っ払いを介抱している人にどこか似ているような気がする。冷静さを失わないでいることは、時に残酷に働くのだ。 やがて狂乱も去り、後に残るのは風に吹かれた松だけとなる。 番組を観た時に、三番目物でこの囃子方はどうなのかと気になったが、予想していたよりは良かった。勿論もっと上はあるはずであるが。 地謡は本日3番中最高の出来。初同から終曲まで周囲の情景、登場人物の心象風景を余すことなく伝え、音楽的な美しさも申し分なかった。やはり良い演能には良い地謡が不可欠である。本日最も印象に残った一番。 余韻を味わいたいところだったがまたしても盛大な拍手が起こる。まるで演奏が終わるか終わらないかの内から響く「ブラヴォー」の声のようであった。この種のブラヴォー、趣味の悪い行為だと思う。
仕舞 紅葉狩 亀井 保雄 蝉丸 今井 泰男
休憩後席に戻ると隣には本来座るべき人がいたので自分の席へ。 亀井師の舞台、求心力に欠けると思っていたが、それも道理。身体に緊張感がまるでない。 今井師はさすがだった。逆髪の道行だが、花が咲き、虫の声が聞こえ、川が流れるのが目に見えるようだった。足の状態は悪そうで辛そうだったが、見事に世界を形成。地も先程のものよりは遥かに良かった。
能 『邯鄲 傘之出』 シテ 渡邉 荀之助 子方 佐野 幹 ワキ 宝生 閑 ワキツレ(輿舁) 高井 松男、梅村 昌功 ワキツレ(大臣) 宝生 欣哉、則久 英志、大日方 寛 アイ 善竹 十郎 笛 藤田 朝太郎(噌) 小鼓 住駒 幸英(幸) 大鼓 安福 光雄(高) 太鼓 小寺 佐七(観) 地頭 高橋 勇
荀之助師のシテを観るのは初めて。この名前を襲名したのは今年に入ってからだったと思うが、どのような意味があるのかは不明。この方、大分前だがワイドショーのコメンテーターをしていた。私が能に興味を持つ以前の事である。能楽師にしては色黒だなぁというのがこれまでの印象。 アイの十郎師、いかにも旅篭の女将といった態。狂言方がアイで鬘を付けるのはこの曲のみだとか。 シテは傘を差して登場。この傘、自分で差すというより人に差しかけるのが主な用途らしく柄が長い。青かった。厚板に法被、さらに袈裟を掛けているせいか、横から見ると着膨れて見える。謡も所作も芯がなくてついついウトウトしてしまった。邯鄲男の面は歳をとっているのか若いのか不明。盧生という人物がそもそもそういった造形なので、まさにぴったりの造形だろう。 シテが横になるかならかいかでワキが登場。盧生は皇帝の座に付く。呆然とした感じがなんだか可笑しい。あっという間に在位50年を迎え、神仙になる。稚児の舞に続いて眼目の一畳台の上での楽なのだが、伸びやかさに欠けた。広い宮殿の中なので団扇が作り物の柱に触れてはならないそうだが、その点は大丈夫だったように思う。予想どおり朝太郎師の笛はコケ気味で、楽が盛りあがらないのも仕方がなかった。笛がテンポに合わず危なっかしいのでつい後見座にいる見目良い人(小倉伸二郎師)など見て気を和ませる。目付け柱に隠れて体半分くらいしか見えないのだが。空降りは思ったより一瞬ではなくしっかり降ろす感じ。 小書によりイロエが入り、橋掛りに行くシテに合わせて視点を転じると、嵐窓の御簾がかなり上げられ、押すな押すなといった態で数人が覗いているのが見えた。興ざめ。楽屋の人間が舞台から見えて良いはずがない。能楽師に足りないのは見られているという意識ではないのか。 一畳台への飛び込みは成功だろう。見ているだけでも危険に思える。 最後に宿屋の主人が傘を渡すのはこの小書のみに見られる演出だろう。 見どころが多い曲だが、いまひとつ締まらず。
附祝言の最中に拍手が出るのはやはり変だと思うのだがどうか。作り物を片付ける時に拍手する必要はないのではなかろうか。
全て終了したのが午後6時20分。休憩の20分を除いてまるまる6時間舞台を観ていたことになる。あまり気にならないのは、私が能楽界の上演形式にすっかり馴れてしまったからだろう。それでもやはり長かった
こぎつね丸
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