観能雑感
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2003年11月14日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

演者も曲も興味深く迷わずチケット購入。中正面最後列目付柱ほぼ正面に着席。
9割弱の入り。脇正面最後列には国立の研修生らしき二人組が。

能 「蟻通」
シテ 山本 順之
ワキ 森 常好
ワキツレ 舘田 善博、梅村 昌功
笛 中谷 明(森) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 國川 純(高) 太鼓 小寺 佐七(観)
地頭 大槻 文蔵

『俊頼髄脳』における紀貫之の和歌霊威譚を本説とする一場もの。世阿弥作。
森師、足の具合でも悪いのか運びが不安定。下居姿もやや苦しそう。ワキとワキツレの道行きがいまひとつ引き締まらない。ワキが謡の調子だけで辺りの様子が一変し、雨が降ってきたことを表現したのは見事だった。
アシライ出でシテ登場。藍海松茶の大口に山吹茶のヨレ狩衣肩上げ。翁烏帽子に面は小尉。左手で傘をさし、右手に燈篭をかかげている。橋掛りでの謡がかなり長いのだが、暗闇の中俄かに現れた宮守の不気味な様子が横溢し、順之師ならではの緊張感のある良い謡で漫然としなかった。
本舞台に入ったところでワキの紀貫之との問答になる。それぞれの謡の良さで緊迫した状況を形成。飽きさせない。
蟻通明神の宮前と知らず騎乗して通り過ぎようとした貫之一行だが、宮守により蟻通明神は「物咎めする神」であることを聞かされ、神慮を鎮めるために歌を捧げるよう促される。そこで読まれた歌が「雨雲のたち重なれる夜半なればありとほしとも思うべきかは」というもの。ありとほしが蟻通を掛けたのは明白だが、「星が出てほしい」とするものと「雨夜にもかかわらず星がある」との二通りの解釈が存在するようである。宮守はこの歌を気に入り、神にも聞き届けられたのか、倒れ伏した馬が起き上がる。
請われて幣を持ち祝詞をあげる宮守。祝詞の途中で気が変じ、本性である蟻通明神へと変わったように感じた。神楽を舞う態で行われる立廻りは力強さと神々しさを合い持った見事なもの。やがて貫之の和歌に感じ入ったゆえ姿を現したのだと告げ鳥居に消えて行く。この時幣をシテ柱に打ち付けた。
シテ、ワキ双方の謡の良さで充実した舞台だった。経験の浅い演者にこの曲を面白く勤めることは無理であろう。
地は初同から不揃い。大槻師の地元である大阪での様子は解らないが、声が特徴的で高めのため、地頭としての力量はそれほどでもないのかもしれない。特に今回のように周囲が銕仙会の面々ではやりにくさもあるのだろうか。

狂言 「狐塚」小唄入
シテ 山本 東次郎
アド 山本 俊則、山本 則直

田の稲穂を食べられないように太郎冠者、次郎冠者に鳴子を持たせ鳥追いに行かせる主。子供でもできる仕事だろうと言う太郎冠者に、主はあの狐塚は狐がでるから子供では危ないと言聞かせる。二人して鳥を追い、日も暮れてきたところに主が酒を持って現れる。狐が化けたのだと誤解した二人は主を捕らえてしまう。
山本三兄弟が揃った舞台を観るのは久し振りで嬉しい。
主の則俊師、風邪なのか声が出しづらそう。珍しい。
主に対する時の二人の所作が見事に調和していて気持ちが良い。橋掛り、本舞台と移動する動作が滑らかで見とれてしまう。鳴子は絵馬状の板に小さな木片を幾つかさげたもの。かなり長い綱がついていて、二人でこれを振り上げて鳥を追う。その様が牧歌的で懐かしさを誘う。小唄入は大蔵流のみの小書。謡の良さは今更言うべくもないが、東次郎師の詞章に合わせた所作が時にはっとするほど典雅な様子を見せる。かなり長く動きも大きい小唄だったが、その後二人とも息を乱さなかったのはさすが。
夜は冷えるからと二人に酒を持ってきた主。呼び声がいかにも遠くから呼びかけている風に聞こえる。二人はこれは狐が化けたに違いないと決め付ける。主が注いだ酒をこっそり捨てる様子は可笑しい。頃合を計って二人は主を縛めてしまう。さあ、ご主人様に報告に行こうと立ち去る二人を追う主は哀れ。
本曲における太郎冠者、次郎冠者は主を慕っており、主も二人を大事に思っている。ご主人様に化けるとは憎い狐だと思うのも、主を大切に思ってこそ。事前に狐がでると聞かされていたが故の心理が引き起こした喜劇であり、後味が良かった。

能 「錦木」
シテ 観世 清和
ツレ 関根 祥人
ワキ 殿田 謙吉
ワキツレ 大日方 寛、則久 英志
アイ 山本 泰太郎
笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 亀井 俊一(幸) 大鼓 観世 元伯(観)
地頭 浅井 文義

つい先日宝生流で観たばかり。両者の違いも気になるところ。
ワキの殿田師は先日と同じ。ツレが異なるので久々に安定した道行きを聴くことができた。
ツレを先頭にシテ登場。宝生流では橋掛りに留まっていたが、観世流ではすぐに本舞台へ入る。両者向き合っての謡は脇正面で。ツレの祥人師、登場した時から視線が吸い寄せられてしまう。端正な立ち姿に面を掛けているとは思えない程の明朗な謡。身体に気が漲っていると言おうか、充実している。シテの後ろに佇む姿は優しげで見守っているかのよう。手には細布を持つ。
シテは熨斗目着流し。水衣は菜種油色だが照明の加減でところどころ緑がかって見える。これといって特徴のないごく普通の男性といった態。
間語、先日は前場を半覚醒状態で過ごしてしまったのでじっくり聴けなかったが、本日はしっかり拝聴した。それによると女の両親がもっと良縁があるだろうと男から遠ざけたらしい。ただのうっかりさんではなかったのだ。物着は大変だが、少々作り物を被う布が動き過ぎたように感じた。ツレは後見座に控えているのだが、その後姿からも気を抜いていない様が覗えた。
後シテ、紫大口に車文様の紺の法被に白のヨレ水衣を重ねる。黒頭に面は錦木男。専用面か。腰帯が若干曲がっているように見えた。先日の宝生流に比べると地味であり、想いが叶う晴れの場というよりは幽鬼という面を強調するものか。ただ『錦木』の装束には幅があり、観世でも半切を用いる。
宝生流では脇座についたツレとは距離をとり、主に脇正面での所作だったのに対し、観世ではツレに詰め寄り直接的な所作が多かった。やや俯き下居したシテはツレに対して「ダメなの?」と問いかけているようだった。ツレは時折ごく僅かにシテの方へ向くのだが、この動いたか動かないかという些細な動作が、シテに向かって微笑みかけているようで、実直な商人の人生を狂わせた傾城の微笑みもかくやと思わせるものであった。これでは男が惚れ込んでしまうのも無理なかろう。ツレと向かい合いながらシテは錦木を捨てるのだが、宝生が床を滑らせて後見前に止めたのに対し、放り投げる態で大小の中間あたりに落ちた。激しい型。
黄鐘早舞は颯爽としていた。若干力感に欠ける庸二師の笛の音が返って曲趣に合っていたように思う。
地謡は一番目に比して遥かに良い。地頭、副地頭以外は若手、中堅勢だったが、皆同じ方向性を指向していたように感じた。前後にそれぞれあるクセも聴き応えがあった。先日の宝生流が引く息の美しさを感じさせたのに対し、放出する力強さであったが、それぞれに良さがあり、両方とも楽しめるのは嬉しい。
シテの清和師、姿形は整っていて謡も明朗だが、内側から滲み出る強い訴えかけというものは感じられかなった。
ツレは見事。一人の女にひたすら想いを寄せる男の話なのだから、ツレが美しいければ曲自体に説得力が加味される。祥人師はやはり注目すべきシテ方だが、これまであまり縁がない。残念。
幸信吾師の掛け声が不気味だと書いたが、亀井俊一師のそれもなかなか恐ろしげであるという事に今日気付いた。
充実した番組だったが平日夜の催しとしてはボリュームがありすぎた感あり。休憩時間が狂言終了後の5分というのも厳しい。いつもは全て終了してからトイレに行くのだが、本日は不安を覚えてその5分の間に行ってしまった。お調べが終わる前に着席できたのは運が良かったからだろう。能一番にするか、狂言を軽いものにしても良かったのではないか。もっとも楽しませてもらっているので、贅沢な物言いなのだけれど。


こぎつね丸