観能雑感
INDEXpastwill


2003年10月12日(日) 第74回 粟谷能の会

第74回 粟谷能の会 国立能楽堂PM12:00〜

本日は観世九皐会別会、宝生流月並能と会が目白押し。宝生流月並能とこちらのどちらを選択するか非常に悩んだ。申込んだ後もまだ迷うほど。金井勇資師の『橋弁慶』(当初は父上である章師の予定だったが今年春に他界)に高橋章師の『井筒』と来れば悩むのも当然であろう。菊生師の『大江山』はこれが最後だろうとこちらにしたものの、不吉な物言いではあるが高橋師の『井筒』とてもう観る機会が無いのかもしれない。無理なかけもちはしたくないのでこれも縁だと無理やり自分を納得させる。
本日ロビーに出店している書店は能楽書林。檜書店は国立主催の催しの時のみなのだろうか。
見所は満員。これはいつもの事である。中正面の正面席寄りに着席。
さて、今回は観賞する上で非常に辛い状況であった。すぐ隣の男性は大きく足を開いて座りこちらに越境してくるほど。演能中に謡曲集のコピーらしきもの音を立ててめくり、パンフレットを何度もポケットから出し入れする際にも音を立てる。さらに鼻をすするというのだろうか、ズルズルというのではなくもっと乾いた音なのだがこれを終始繰り返しつづける。髭をこすってジョリジョリと音を立てる。ただでさえこんな人物と数時間隣合せになるのは御免被りたいが、能楽堂の中ではその悲惨さはいや増す。さらに前列の男性は挙動不審としか言い様がなかった。その人物の周りの席は空席で、身体は動かし放題。舞台よりも見所を見ているのではないかと思うほど意味不明な笑みを浮かべながら振り返って周囲を見渡す。何度も腕を上げて頭を掻き毟り、腕を高く振り上げて腕時計を見る。私の視界はそのたびに遮られた。このように落着きなく動き続ける人物が前列にいるのは、それだけでも集中力を削がれ不快極まりない。番組が進むにつれて周囲の席が若干埋まったので動きは徐々に少なくなったが、一番目の時は酷かった。三番目が終了した時は隣の男性による不快な騒音から開放される事を先ず喜んだ程。鬱陶しい観客は近くに一人でもたくさんだが、二人となると悲惨としか言い様が無い。これもめぐり合わせで仕方ないが、やはり宝生にすれば良かったかと思わせたのは事実である。観劇のマナーは大切である。無神経な行為が他者の観劇を台無しにしているかもしれないのだ。自戒も込めて、注意せねばなるまい。

能 「藤戸」子方出
シテ 粟谷 能夫
子方 高林 昌司
ワキ 森 常好
ワキツレ 舘田 善博、森 常太郎
アイ 野村 与十郎
笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 佃 良勝(高) 太鼓 助川 治(観)
地頭 粟谷 幸雄

子方出の小書は東京では40年振りだそうである。番組を見た時からその効果の程を疑問視していたのだが、さて、実際はどうだったか。
ワキ方の出は通常どおり。常太郎師というのは常好師の息子さんなのだろうか。まだ舞台にいること事体に不慣れなのか、落着きがなく、視線が動いてしまう。ワキ方は安定感が重要なので今後の課題だろう。
常の形ならば盛綱の下人であるアドが訴訟ある者は申し出るようにと呼ばわるのだが、今回はアドはまだ舞台上におらず、子方を先頭に母親が登場する。橋掛りで両者の短いやり取りあり。子方は少女の出立。観世流とは異なり地声のまま。
番組には漁師の遺児が出る事で家族の痛みが際立つというよな事が記載されていたが、ドラマとして我が子を殺された母親の哀しみに焦点を当てた方が、やり場の無いその想いが一層強く感じられると思う。どうにも視点が分散してしまった感あり。常の形では母親が訴え出てから盛綱が気付くのだが、今回は盛綱の方からあそこに訴訟有り気な女人がいると母の抗議を促したため、非常さが若干和らいでいるのも哀しみを際立たせるという効果を疑問視するところ。
その後はほぼ常の通りに進行。息子と同じ目に合わせてくれと詰めよる場面は哀しみよりも怒りをまず感じた。下人に促されて帰って行く際、祖母の腕にそっと手をかけた少女の動きは確かに哀れさが漂う。
アドの送りこみは庶民ゆえの哀しみと、武人ゆえの非常さ両方を理解する立場として、下人が息子を失った母親に語りかける重要な場面であるが、与十郎師のセリフ、あまり心から出た言葉のようには響かなかった。この役の難しいところだろう。年輪を経てどう変わるのか。
下掛りでは後シテは出端により登場。能夫師は立ち姿が端正で美しいのだが、前シテ同様、端正過ぎて亡霊という雰囲気には若干欠ける。恨みを抱えているようには見えないのだ。盛綱に襲いかかろうとして思い直し成仏するところの変化が表出しない。本曲のような演劇的な曲には物足りなさを覚えた。
地謡はやや不揃い。とりあえずこんなところといった風。
北村師、やはり不調のようである。太鼓の音が低く感じた。


能 「釆女」佐々浪之伝
シテ 粟谷 明生
ワキ 宝生 欣哉
ワキツレ 梅村 昌功、御厨 誠悟
アド 野村 万之丞
笛 一噌 幸弘(噌) 小鼓 大倉 源次郎(大) 大鼓 亀井 広忠(葛)
地頭 友枝 昭世

本曲は初見。詞章を読むと春日大社縁起に入水自殺した釆女の様子、後場ではさらに釆女の職掌に行幸の折の活躍と盛り沢山な内容。そこで入水した釆女に焦点を当てた演出が観世流の小書、美奈保之伝。今回は同様の意図で喜多実師により初演されたものをさらに再構成したもの。研究公演で試みて未消化な部分を改めたそうで、序ノ舞は新趣向とのこと。
水死体は悲惨な様相を呈するものであるが、ここはロセッティの描くオフィーリアのごとき優美な様を想起したいものである。春の春日野に水から現れ、またそこに消えて行く美しい女性の姿はいかにも幻想的で、想像力を刺激する。
名乗り笛でワキ、ワキツレ登場。程なく猿沢の池へ向かおうとする。そこへアシライ出でシテ登場。入紅唐織、面は増か。手には数珠を持つ。常座で「吾妹子が寝ぐたれ髪を〜」の歌を口ずさむ。ちょっと近よりがたいような、冷たい美しさを湛えていて結構なのだが、怪しさが前面に出過ぎている感あり。最初からこれでは後の展開が見えるようでつまらない。謡はやや重過ぎるか。面使いは巧みで猿沢の池が眼前に広がった。肩が前に落ちてどことなく力なく見えるのが惜しい。
女は帝の寵を失った事を嘆き入水した釆女であると告げ、供養を頼んで水の中へ消えて行く。回転して身体を落とし、水没した態。
アドの里人が常の形で曲の中に含まれる春日大社縁起、釆女の役割等を独り言という態で手短に告げ、僧の求めに応じて入水した釆女の事を語る。この間語は研究公演の際万之丞師に作成を依頼したそうで、本日の配役は順当。長袴の裾捌きがやはり美しくない。
僧の読経に応じて後シテ登場。面は同じ、緋大口に水浅葱の長絹、金で草の文様入り。自分は既に釆女ではなく変成男子であると告げ、成仏できる喜びを舞う。この舞、通常の序ノ舞とは若干形を変えたとのことだが、序の部分が常とは大分異なって聞こえた。舞い始める前に佇んでいる時間が妙に長い。基本となる旋律は序ノ舞と一緒。脇正で袖を被くところは斜め前を向いたり(見所側、猿沢の池を眺めていた方向)、正先で跪いて扇を広げるなど常には無い型が散見。この舞だけを独立して扱えば美しく見事なものだが、全体のバランスから考えると重過ぎる。前場は『半蔀』のごとくあっさりしていたのに、ここにきてなぜこれほど重量感のある舞が必要なのか。この釆女は主君を恨んでいるわけではなく、入水したのは早計だったと考え直し、今は成仏できるのだという喜びが先に立つはずで、情念と言う生々しい感情とは無縁と思われる。演者側として力を注ぎたいところだというのは分かるが、それも全体の構成を考えねば想いだけが突出し歪になる。
舞が連続したまま橋掛りへ行き、幕前で再び水底へ沈む態で終曲。
曲の構成そのものは大変良く出来ており、何度も勤める内にさらに洗練されたものになるであろう。惜しむらくはこの曲の持つ祝言性にやや欠けたところか。舞の位は再考が必要ではないか。
囃子方は気の揃った充実した演奏を聞かせてくれた。久々に源次郎師の美麗な手を拝めて祝着である。ご本人のサイトで指の調子が良くない旨書かれていたが、大事にして頂きたい。チの音が美しく響いた。
地謡は一番目に比べると雲泥の差。シテの意を汲み取った見事なものだった。

狂言 「酢薑」(和泉流)
シテ 野村 万之丞
アド 野村 祐丞

酢売りと薑(生姜)売りが互いの商売物の優劣を競い、系図を比べ秀句を応酬する。つまりは言葉遊び。二人とも競うというよりはこの遊びを楽しんでいて、勝敗を決せぬまま終曲するところが爽やかで良い。万之丞師の声が裏返り気味なのは相変らず。祐丞師の飄々とした明るさは嫌味がなくて結構。このような言葉遊びを扱った曲は好きなので楽しめたが、後列のご婦人方のお喋りが非常に耳障りだった。

能 「大江山」
シテ 粟谷 菊生
ワキ 宝生 閑
ワキツレ 宝生 欣哉、大日方 寛、野口 能弘、舘田 善博、御厨 誠吾
オモアイ 野村 祐丞
アドアイ 住吉 講(?)
地頭 粟谷 能夫

番組上ではオモアイの剛力が住吉師、洗濯女が祐丞師となっていた。
御伽草子の酒呑童子から取材した曲。作者は宮増か。
折口説では童子とは有髪の下級聖職者が落魄した姿らしい。また赤い色と山に住み、肉食であるという特徴から産鉄民であることが想起される。「まつろわぬ民」を鬼として扱った事例のひとつ。退治する側の頼光配下の四天王も農耕民ではないようで、鬼は鬼に退治させるという朝廷の巧みな戦略が見て取れる…というような事は追及し出すとキリがないのでこれくらいにしておく。ただ、詞章を読んでも騙し討ちであることは明白で、童子が気の毒。
頼光役の閑師を先頭に山伏に扮した一行が登場。道行はシテ方のそれとは異なり力強い。欣哉師が独武者役。まず剛力に偵察させ、洗濯女から情報収集を行う。
洗濯女の呼掛けに幕が上がり姿を見せるシテ。短いやり取りの後幕は降り、一行が童子の住処にやって来てから改めて登場。声の力が少し薄れているように感じた。
山伏一行の来訪を喜び、己の境遇を語る童子。住む場所無く追われ続けた様子が露となり哀感を誘う。酒を飲み興に乗って舞う姿は面が童子であるせいか無邪気さえ感じられ、この後の展開が一層辛い。ワキをじっと見込む姿は迫力十分。
童子は寝室に入り、一行も闘いの準備のため下がる。中入の間は狂言方二人のコミカルなやり取りで場を繋ぐ。このアイが終了してからしばし空白の時間ができてしまった。
作り物が運び込まれ、武装した頼光一行が寝ている童子を襲う。頼光は松明を持って一行を先導、そのまま橋掛りに残る。何と言っても1対6なので童子の劣勢は明らか。健闘しつつも弱って行く様が哀れである。最後は頼光が止めを刺して意気揚揚と都に凱旋する。
菊生師、面使い、身体の在り様、ハコビはさすがだが、やはり衰えは隠せない様子。本曲はワキ方の活躍が目立つ曲だが、それだけに切り組みの際、もっと若いシテだったら…と思ってしまったのも事実である。まだまだ舞台の数は多いようだが、くれぐれも無理なさらないでいただきたい。
歴史は支配者が作るものだ。平安時代、「人」だったのは五位以上の貴人のみだったそうである。そして朝廷の支配を受け入れない者達は、さまざまな蔑称で呼ばれ、蔑まれた。五位以上の貴族など全人口から見れば水の一滴に等しい数であろう。日本はまさに「鬼の国」だったのだ。

展示室では国立能楽堂が収集した能楽関連の書画が展示されていた。その中でもっとも目を引いたのが川鍋狂斎の「釣狐」。荒野に杖をつき佇む白蔵主を描いたものである。衣の水色以外ほとんど色彩がなく、すぐ想起する狂斎の画風とは随分雰囲気を異にした作品だが、物思う様子の白蔵主や荒野に吹く風までが感じられる程で、いくら見ても飽きないくらいだった。最悪と言っても良い観賞条件にうんざりしていた中、この絵は正に清涼剤となった。


こぎつね丸