観能雑感
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国立能楽堂定例公演 PM1:00〜
国立能楽堂の本年度年間予定表を見た時、真っ先に目が行ったのが今日の演目。九郎右衛門師の井筒とあらば、万難廃して馳せ参じるしかあるまい。 アンケートを配布していて回答すると先の20周年記念の際に渡されたクリアファイルをもらえた。既に手元にあるものとは違うデザインだった。 前日の夜は疲れている筈なのに良く眠れず、能を観るには甚だ不都合。しかし気にしてはいられない。柱が邪魔にならない中正面後列に着席。見所は平日昼間にもかかわらず補助席が出る盛況振り。GS席も埋まっていた。
狂言 「文荷」(和泉流) シテ 佐藤 友彦 アド 野村 又三郎 小アド 井上 祐一
この曲は和泉、大蔵各流儀で一度ずつ観た事がある。本日は共同社と又三郎家との共演。又三郎師が主人役。 台本上の最も顕著な違いは文の相手が若衆であり、個人名が明示されるところ。文の使いを命じられた太郎冠者、次郎冠者が主人を諌めるところも他では見られない。文を担いでの道行きが短く、勝手に読み始めてしまうまでの時間が短かった。結末は異同なし。 不自然な表情、力みがなく、淡々と進行。個人的にはこういう流れは好ましい。所作も丁寧。惜しむらくは劇の筋よりも早く友彦師が又三郎師を視界に入れてしまい、その後の展開に不自然さが生じてしまったこと。全体しては柔らかな空気が漂い気持ちの良い時間だった。
能 「井筒」(観世流) シテ 片山 九郎右衛門 ワキ 宝生 欣哉 アイ 野村 又三郎 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 安福 健雄(高) 地頭 大槻 文蔵
本曲を観るのは3回目だが、上掛りでは初めて。 井筒の作り物は低め、薄は向かって右側に付いている。 ワキの出、相変らずの風雅な僧振り。静かな秋の風情が漂う。次第でシテ登場。この「暁ごとの閼伽の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん」というシテ次第は数ある謡曲の中で最も美しい部類だろう。ごく単純な中に風景、心情が織り込まれ、シテの心とともに冴えた夜明けの大気までをも感じ取ることができる。淡萌黄の地がごく僅かしか見えない程に秋草文様が織り込まれた唐織、面は小面。内に力の込められた謡、実体感のある身体で、美しいけれど怪しむべきところのない普通の女性といった様子。途中少しシテ謡が苦しそうに思えるところもあったが淡々と進行。下居は少々辛そうだった。表出しないけれども内に湛えているものが変成し、女は姿を消す。こちらの状態があまり良くないので、半覚醒状態なところも。 アイの又三郎師、前場で作られた雰囲気を壊す事無くごく自然に状況に溶け込んで登場。アイの登場の折り、舞台が暗転したかのように全く異なった空気を感じる事も多い中、真に結構な出方。気持ち良く語りを聞いていたが、「較べ越し振り分け髪も〜」のところで絶句。一呼吸おいて恐らく地頭により付句され、後は事なきを得た。このような現場を目の当たりにすると、間語がいかに綱渡り的な芸であるかを痛感する。場内に響くものは己の声だけであり、その声のみで世界を形成せねばならず、僅かな隙でその世界は容易に崩壊するのだ。 後シテ、紅葉柄の摺箔に薄色地に同じく紅葉をあしらった紗長絹。業平菱でないので女性が男装している感がより強まる。他の物は目に入らぬがごとく、井筒に吸い寄せられるように登場。一声の後序ノ舞。動きは極度に抑制され、舞台を半分程度しか使っていないように見えた。段が進むごとにに己の内側に深く沈殿して行くがごとき舞振り。そこには月の浮かんだ秋の美しい風情も、前場で明らかになった業平との物語も感じられず、ただ己の内にある想いのみに身を任せる女がいるだけであった。 ネット上で目にした能の感想に、井筒の女が何ゆえこの世に未練を残しているのか解り難いというような内容のものがあり、確かにそうだと頷いた。『野宮』や『定家』ではその執心の在り様が他者に知覚されやすく、あの難解な『芭蕉』でさえ、結縁という目的意識が感じられる。しかしこの『井筒』では、一応想いも遂げられこれほどの執着心をおこさせる要因が欠しく思える。自分なりに考えてみたところ、この女は「待つこと」を完遂できなかったからこうして今ださ迷っているのだという結論に達した。中世における『伊勢物語』の理解では、「人待つ女」と呼ばれた紀有常の娘は苦難を乗り越え業平と結ばれるが、二条の后との艶聞が露見し東下りを余儀なくされた夫とまたも離れ離れになる。3年間桜とともに待ち続けるが、ちょうど3年目のある日、新たな夫を迎え入れる(当時は3年間夫の訪れがないと自動的に離婚が成立した)。しかしその夜業平が帰って来て、歌を詠み置いて去る。女は男を追いかけるが、追いつく事無く息絶える。最後まで待ち続けていられなかった、その後悔の念が長い時を経てなお女をこの世に留まらせているのだろう。待つという行為は一見受動的だが、強固な意思の下においてのみ実行される。そしてその行為を成さしめるものは、捨てたくとも絶ち切れない想いなどと異なり、他者には理解し難いものである。女の内面世界でのみ完成する行為なのだ。 実はこの序ノ舞を観ている時、これまで経験したことのない物を観ているという感が付きまとい、何と表現したらよいのか解らなかった。こちらの想像力を喚起する類のものではなく、ある種の拒絶、「所詮私の気持ちはあなた方には解らないのだ」と言い放たれているようでもあり、自分の中でどう処理してよいのかと当惑すらした。考えがまとまりだしたのは能楽堂を後にしてから、そしてさらに日数が経過してからである。 僅かな動きに想像力を刺激され、様々な景色を思い描くのも確かに能の重要な楽しみ方ではあるが、このように他者を拒絶し、表面的な解釈を拒むのも能の在り方のひとつではないか。時間が経つごとに鮮やかになる印象というのもまた、得難いものである。 井戸を覗きこむところは、水面の奥深くまで身を乗り出す大きな動き。ここは感興の頂点であると同時に女の昂ぶりが一気に冷めるところでもある。それまで一体化していると思っていた業平の姿を見ることは相手を他者として認識することであり、所詮ひとつの存在にはなれないという現実を付きつけられるところなのだ。キリで扇をかざし脇正で俯く所作は業平に対する尽きせぬ思慕、叶わない同一化、それでもそれを希求してしまう己へのやるせなさ、恥ずかしさ、それらが凝縮し、ここへ来てやっと己の外へ目を向けた女の姿を感じ取った場面であった。今日の舞台で唯一、可憐さを感じた部分。 夜が明け女は消えるが、きっと永遠に待ちつづけ、己の叶わぬ願望に翻弄され続けるのだろう。次第の一句はこの絶ち難い連鎖から解き放たれたい、そんな女のもうひとつの願いなのだ。 後場で女の姿を静かに見守っているワキの存在は重要だが、これほど美しく座れるものかと思うほど、端正な姿だった。舞台の床についた装束の線までもが効果的。 前列は全員東京勢の若手に後列に関西勢が混じった地謡、芯がなくどことなく及び腰で物足りなかった。後見は片山清司師と味方玄師。やはり味方師の所作はきれいだった。 元来、能は同じ舞台でもその評価が大きく分かれる場合が多い。それだけ能を観るという行為は個人的体験なのだろう。本日の舞台はその振幅が殊の外大きいように感じられた。正直、どのように感想をまとめるべきかここまでここまで悩んだのは初めてである。だからこそ能は面白く、興味が尽きないのだ。 禅竹作品に比べると仏教色や難解な用語が少ない世阿弥作品であるが、この奥行きの深さ、多様性はどうであろう。一筋縄では行かないというのが、偽らざる感想である。世阿弥は凄い。
帰りの電車の中で国立劇場関連の催し物の予定が掲載された小冊子をめくる。その中にいとしこいしご両人の名前を見つけ、不覚にも目頭が熱くなった。私にとってこのお二方は安心して戻って来られる場所のような存在であった。探せば必ずどこかに居てくれるものと、都合良く信じていたのかもしれない。もうあの品の良い芸を記録以外で目にすることは二度とないのだ。世は斯くの如く無常である。
こぎつね丸
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