観能雑感
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観世文庫自主公演 観世能楽堂 PM6:00〜
片山九郎右衛門師の舞台を観る機会は東京では限られる。よってチケット発売から程なくぴあで購入。主催者から入手する方がいいのであろうが、観世会のごとく郵便書留で入金、配達記録郵便でチケット送付という手順ではあまりに面倒なので止む無く避けた。公演当日まで間があるのでチケットは放置、公演日の2日前に座席を確認、なんと中正面最前列。これまでに2列目で観た事はあるが最前列は初めて。動揺する。遮るものがなくて良いが、近すぎると見え難いのではと少々気になる。 当日は開演時刻に間に合わず。係員から指示されたとおり5扉から入場するが、ここからだと客席を横切らねば自分の席には辿り着けず、やはり当初の予定どおり4扉から入ればよかったと後悔するが時すでに遅く、狂言は立ったまま観賞。
解説 西野 春雄
上記のとおり間に合わず。6時開演というのは仕事を持つ身にとっては厳しい。聴きたかったのだが。
狂言 「寝音曲」(和泉流) シテ 野村 与十郎 アド 野村 扇丞
主人が太郎冠者に酒を勧めるあたりから観始める。バックの中からガサガサと音を立ててメガネを取り出す事は憚られ、曖昧な視界に甘んじる。与十郎師、酒に酔った様子はあまりなく、やや物足りないが謡、舞とも悪くなく淡々と進行。
能 「景清」松門之出 シテ 片山 九郎右衛門 ツレ 片山 清司 トモ 岡 久廣 ワキ 宝生 欣哉 笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛) 地頭 観世 清和
狂言が終了してやっと着席。目付柱が近い。ここからだと揚幕がよく見え、欄干(というのだろうか)に留めてある部分が直線ではなく緩いアーチを描いているのがわかった。 お調べが始まるが、なぜか笛と小鼓のみ。その後亀井師は普通に登場。どのような理由によるものかは不明。 次第でツレとトモ登場。面は小面だと思われるが、若女にも見える。頬がすっきりして甘さがない。同吟は不揃いではないが高い声の清司師に岡師が合わせているようでギクシャク。長い旅路を経てきた風情を漂わせるに至らず。ツレのサシも無理に高い声を出しているように感じられた。清司師、喉の不調なのだろうか。 小書付きなので短い笛の演奏の後にシテ謡。侘しい浦に落魄した己を嘆く声が響く。シテの第一声は曲の雰囲気を決定付ける重要なものだが、本曲ではそれが顕著。九郎右衛門師、かろうじて残る武士としての力強さに現在の境遇の寄る辺なさを滲ませ、発した一音から物語の世界が構築されて行く。角烏帽子と厚板は鈍い金に微妙に色調の異なるびろうどの文様入り。玉子色の大口、水衣は墨色。面は髭在りで白っぽい。質素な中にも品位を失わない様子。面、装束の取り合わせの良さにまず感心。 来訪者が娘であることを知るが知らぬ振りを通し、そうせねばならない我が身を嘆く景清。シテはほとんど動かないが僅かな動作に心中の動揺が伝わる。 トモの呼びかけにワキ登場。欣哉師、僧や勅使とは異なり若干粗野な雰囲気を漂わせる。やはり役者はこうでないとと内心頷く。 事情を聞いた里人は二人を景清の元に案内する。当日渡されたパンフレットにはこの里人の行為を心無いとする記述があったが、必ずしもそうとは言えないのではないか。もし里人の行動がなかったらこの親子は未来永劫会う事はなかったはずだ。名乗りたくともそうできない景清の心情を汲み取り、気分を害するのを承知で栄光の記憶とともにあるかつての名を声高に呼ばわったのだろう。これがきっかけとなり景清は藁屋から姿を現すのだから。 捨てたはずの名を呼ばれ、怒りを露にするも里の人々の情けにすがってかろうじて生きている我が身を思い、許しを請う。目は見えずとも、人の心、自然の移ろいは解るのだと述懐する一連の流れは様々な想いが交錯し、シテの発するコトバとともに心中に染み入った。親子の対面は淡々としていて、だからこそ両者の抱えた想いの深さが浮き彫りになる。娘に廻した父の腕は、老いたりとは言えども力強かった。 娘の希望どおり、己の生涯で絶頂の瞬間、屋島の合戦における錣引きの様子を語り始める景清。地謡の「その時景清は」で立ち上がるシテの背後に広い空間が開け、刀のぶつかり合う音、名乗りを上げる声、馬の嘶き、潮騒、そんな戦の様子が映し出された。一心に語る盲目の老人がまず在り、二重映しのように語りの内容が映像となって現れる、そんな時間だった。 語り終えた景清は一気に年老いたように見えた。身体も小さくなってしまったかのよう。別離を惜しみ寄りそう二人だが、感情を露にすることなく静かに別れて行く。昨年観た喜多流では橋掛りの方まで娘を送って行き、音が出るほど強く肩を叩いて突き放すように送り出したが、今回は脇正で互いに身を引いていったように見えた。ほんの僅かな歩みの中に複雑な想いがこもる。娘を見送るその表情は、これまでの様々な感情のうねりから開放された、静かなものであった。 九郎右衛門師、落魄しても誇りを失わない気高さを持った老人を隙なく形成。初めて観た時は、正直この曲の良さを計りかねていたのだが、今回は淡々とした中にも芯のある語りに聞き入った。一曲を通して漫然とするところなし。 地謡はただ力任せなだけで甚だ残念。曲趣が生きない。シテが見事だっただけに惜しまれる。埒もないが、今日のシテの演技に宝生流の謡が付いたらどんなにか良いだろうとふと思った。 後見の一人は味方玄師。まったく揺れない上体と指先まで気を配った立ち居振舞いが目を引く。後見は目立ってはいけないのだが、目立つというのではなく、つい目が行ってしまうのである。log osakaに掲載されているインタヴューで、周囲の人の視線を集めてしまう人というような事を石淵氏が書かれているが、さもありなんである。私のcriteriaには合致しないが、長い指はやはり素晴らしい。
観世文庫の自主公演、「仕事帰りの人にも気軽に能を見てもらいたい」というのが狙いであるそうで、パンフレットにも「能は7時から開演」とわざわざ書かれているが、それならば開始時間そのものを7時にするか、解説、狂言をなくし能一番の催しにするか、間を取って狂言、能一番ずつで開始時間6:30にするか(これだと国立能楽堂の定例公演と一緒であるが)、再考の余地があるのではないか。現行ではいかにも中途半端である。終了時刻は8:30だったので、これが1時間ずれても大過ないように思うのだが。
前回から装束の色を表記する際の参考書を『かさねの色目』から『日本の傳統色』に変更。著者はどちらも長崎盛輝氏。染色技術は江戸時代に入ってから飛躍的に向上し、色の数も一気に増加したため、平安時代の有職では能装束に対応しきれないのは承知していたのだが、「ペールグリーン」などと英語で表現するよりは遥かに良いであろうと頓着せず使用していた。カラーチャートは見ているだけで楽しいが、どこまで適切な色を選べるかが今後の課題になりそう。
こぎつね丸
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