観能雑感
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宝生流月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜
豪華出演者で見所には補助席が出ていた。幸い代演もなく番組通り。席は中正面前列やや脇正面寄り。村上氏はやはり正面席最前列中央に発見。
能 「枕慈童」 シテ 今井 泰男 ワキ 工藤 和哉 ワキツレ 梅村 昌功、則久 英志(番組に記載なし) 笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 観世 新九郎(観) 大鼓 大倉 三忠(大) 太鼓 観世 元伯(観) 地頭 近藤 乾之助
手持ちの謡曲集には未収録なので半漁文庫から詞章をダウンロード。観世流の菊慈童=他流の枕慈童であることは承知していたので、自分では「宝生流の枕慈童」を選んだつもりだった。しかし実際は「観世流の枕慈童」であり別の曲。サイトには流儀の事など全く触れていないので、なぜこのように思いこんでいたのか謎。当日演能が開始されてから気付くあたりどうしようもなく愚かである。 白と黄の菊を配し枕を載せた一畳台が正先に置かれる。庵は大小前へ。 工藤師の勅使はいかにも長年仕えているという雰囲気が漂っていて良い。梅村師はやはり姿勢が悪い。被いが除けられ作り物の中に腰掛けたシテ登場。声は若干苦しそう。面は童子か。子供というよりは青年になる一歩手前の少年といふ風情で大人っぽく、僅かに憂いを湛えているよう。黒地に金の菊文様が施された半切、淡朽葉の縫箔と法被に紅葉の模様。虎や狐しか住まない所にいるそなたは化生の者かと問われると、そんなところにやって来たあなた方こそ化生の者でしょうと言い返すのが面白い。己が人であった頃から既に700年経過している事に驚きつつ、菊水によりもたらされた長寿を喜び舞を舞う。 舞い始めは慈童が楽しんでいるようには見えず、憂悶が前面に出ているように感じたが、楽が進むにつれ憂愁を帯びた面から笑みが立ち上ってくるようであった。今井師、高齢の上体調も万全とは行かないせいか、苦しそうに見えていたのも束の間、そこにはただただ無心に舞う長い時を生きていたひとつの存在があるだけだった。解説書等では楽しく舞うとされているが、やはりただ楽しいだけではないのではないか。誤解は解けたとはいえ、寵愛を受けていた君主に追放され、一人山中に想像もつかないくらい長い年月暮らしてきたのだ。なんらかの哀感が伴わないわけはないと思うのである。勿論、ただひたすら楽しく舞戯れる行き方もある。 菊水の流れを見詰める慈童の面の優しく満足げな表情に涙が滲んだ。キリのノリ地が軽やかで格調高く、山中を吹く風のごとくであった。一畳台への昇降も後見の手を借りることなく終曲。 慈童の抱える憂悶は今井師の意図するところではなく、衰えた体であるこそ生まれた効果だったのかもしれない。しかし、それも能の表現の内のひとつだと思う。 大鼓の三忠師、どうにもいただけないが、元伯師の太鼓が囃子を引き締めた。
狂言 「栗焼」(和泉流) シテ 野村 萬 アド 野村 与十郎
客に振舞うために栗を焼くよう命じられた太郎冠者。もともと数が足りないのにもかかわらず自分で食べてしまう。さて、どのように言い繕うのか。 見どころはシテが栗を焼く様。この部分がかなり長いので上手でないと中だるみが避けられないと推量するが、そこは萬師、巧みである。切れ目を入れておかなかったために栗が爆ぜ、ひとつひとつ手に取り刃物を入れる様子など、楽しみながら働く太郎冠者が見ていて実に楽しい。 自分の仕事振りに満足しつつ、漂ってくる良い香りに抗し切れなくなりひとつ、またひとつと栗を口に運ぶ太郎冠者。これが分けてもらいたくなるくらいに美味しそう。主には竈の神が現れ、老人夫婦と34人の公達に与えたと報告。栗は40個あったのだから、残りの4個はどうしたと訪ねる主人。1個は虫食い、後は灰にまぎれてしまったと言ったところで終曲。主人は別段太郎冠者を咎めたりせず、不注意だったと言うのみで、鷹揚な性格が窺える。 萬師の所作、コトバの巧みさを堪能できた一番。
能 「半蔀」 シテ 三川 泉 ワキ 森 常好 アイ 野村 与十郎 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 上條 芳暉(葛) 地頭 高橋 章
類曲の「夕顔」は観た事があるが、本曲は初めて。前者が恋の因果とそれに翻弄される寄る辺なき身を嘆き、解脱を願う仏教色の濃い作風に対し、こちらは突然訪れた恋の驚きと嬉しさを控えめに称える。 前シテ、面は若女か。前場は常座からほとんど動かず中入。ひっそりと佇む姿は可憐で儚げ。向こう側が空けて見えるのではないかと思うほど。正に人なのか花の精なのか分不明な存在である。 後ジテは秘色の長絹に緋大口。前ジテに比べると遥かに実体感があり、華やいで見える。橋掛りを歩んで来る姿の可憐さに目を奪われる。僧の呼掛けに従い蔀戸を空け作り物から出てくるが、後見が支える棒に手を添えて自ら戸を開ける態。半蔀の作り物には夕顔の花と小さな瓢箪が下がり可愛らしい。実体感が増したとはいえ、触れれば消えてしまいそうな風情。 序ノ舞は軽めの位で進行。段が進むに従って面には陶然とした表情が浮かぶ。もうお終いかと思うほど、あっという間だった。可能な限り省略した形だったのかもしれない。再び作り物の中に戻って終曲。 一曲を通して愛らしいシテの存在が際立った。三川師でないと出せないと思わせる可憐さと曖昧な存在感。夢から覚め、はっきりと思えてはいないけれど微かな心地よさは残っている、そんな風情であった。 大五郎師、ヒシギもよく鳴り、終始安定し儚い夢の世界を作り上げた。序ノ舞は終わってしまうのが惜しい程。対して北村師はこの頃指摘されている通り、間が空いたり短かったりと素人の私にも耳障りに聞こえるほど。どうしたのだろうか。 このような小品を品よく、軽やかに勤め上げることが可能なのは、歳月の重みを知ってこそか。
能 「熊坂」 シテ 亀井 保雄 ワキ 殿田 謙吉 アイ 山下 浩一郎 笛 中谷 明(森) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 原岡 一之(葛) 桜井 均(金) 地頭 佐野 萌
前シテは直面だがこれが見事。ワキ僧と同じ出立たが拭いきれない不気味さがある。 アイの山下師、一本調子で力がやや入り過ぎかとも思うが、それが決して不快ではない。発声そのものに安定感があるためか。これからに期待。 後シテの長霊ベシミは不気味。やや上目使いで一点を凝視しているように見えるところが執心を感じさせる。後場は牛若と対決し破れる様を仕方話で見せるのだが、なぜは少し眠くなってしまった。観世流で観た時よりは所作は控えめ。だんだん力が弱って行くのは憐れをさそう。 どこがどう悪いのかは解らないが、不思議と求心力に欠けるシテであった。この方の舞台に対する共通した印象である。 中谷師、音は良く出ていたが情景を浮かび上がらせる奥行きはやや欠けるか。原岡師は音より掛け声に課題がありそう。
隣の席の男性、落ち付きなく身体を動かし組んだ足の靴底をこちらに向け、何とも無作法。狂言が始まって後方のご婦人方が話し出すとすかさず注意。他人には厳しいようである。 びっくりなのが列の端に座っていた女性。3番目が開始してからふと横を見ると口紅を直していた。
全く余談だが、村上氏のスーツは高そうだといつも思う。
こぎつね丸
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