観能雑感
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2003年09月12日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

待ち望んだ日到来。先月は一度も能を観ておらず、7月は素人会に一度足を運んだのみなので玄人の公演は6月以来である。その間思うに任せぬ事ばかりで舞台から遠ざかってしまったが、その期間があったからこそ今日のこの日を心の支えとして来られたのだろう。能を観るという行為は、私が生活する上で欠かす事のできない大切なものなのだと改めて思い知る。
6月の銕仙会80周年記念公演に出かけた際、今回の番組を見てぜひ観たいと思ったのだがその時銕仙会のHPでは完売マークが付いていた。一度は諦めたがどうやら間違いだったらしく難なくチケット入手。
仕事を終えて急いで会場へ向かう。現在の勤務先は歩いて宝生能楽堂へ移動可能。私が人一倍歩くのが速いというせいもある。秋だというのに蒸し暑く汗だくに。久々に訪れた能楽堂の空気に安心する。席は目付柱の真正面。笛方が完全に隠れる。

能 「放下僧」
シテ 柴田 稔
ツレ 長山 桂三
ワキ 村瀬 提
アイ 山本 則秀
笛 田中 義和(噌) 小鼓 鵜澤 洋太郎(大) 大鼓 柿原 弘和(高)
地頭 観世 銕之丞

復讐劇の態は成しているが、実は放下、放下増という芸能者を登場させるための口実に過ぎない。鞨鼓、曲舞、小唄と芸尽くしを楽しめばよい。禅問答も真剣味よりは軽妙さが勝る。
父の復讐を誓う弟が出家の兄を訪ね行動を供にするよう説得。この前半部分、敵討ちを誓うという面を強調すると重苦しくなり曲趣を削くが、かといって完全に無視するわけにもいかず、なかなか難しいところ。シテ、ツレともに酷く気になる点がない代わりに目を引かれるところもない。様式を守ればそれとして見せられるのが伝統芸能だが、ただ型通りでは観客を魅了することは出来ない。決った型の中に何を込めるのかが重要であり、それが実行されてこそ血の通った芸になる。世阿弥の時代から直面は難しいと言われているが、今回それを実感。面をかけていれば僅かな動きでも効果的に見せることができるが、直面ではそれが表現として成立しずらくなる。よって観客は想像力を働かせられなくなり、必然的にその能はつまらないものになってしまう。シテの芸づくしが最大の見せ場である本曲のような場合、シテの力量が不足しているとどうにも楽しめない。敵討ちを誓い俄か芸能者に身をやつした兄弟なので、芸がぎこちなく緊張感が漂っているのはドラマのリアリティを考慮するならば必然なのかもしれないが、そもそも本曲はドラマの方が付足しなのだからやはり芸は芸として華やぎが欲しい。柴田氏、型通りというだけでそれ以上のものが感じられない。そして酷なようだが本人にも役者としての花が感じられないのだ。成る程、直面とは酷なものである。
僅かな動きで見る者の想像力を最大限にまで引き出す事は技術である。それ無くして能は成立しないのではないか。
ツレの長山師、声は大きいがそれだけ。覇気が感じられず。これからを担う若手がこれでは何かと気掛かり。これからどう変わるのか。
笛の田中師は今回初めて聴く。音量は十分だが陰翳に乏しい。笛は情景を描き出すのが重要な役目であるが、それは一番一番舞台を勤めて身に付けて行くしかないのだろう。
柿原師、父上と弟さんは拝見する機会が多いのだが、なぜか不思議と長男のこの方には縁が薄い。久々に拝見。掛け声が父上にそっくり。
中世に流行した「面白の花の都や」という小唄、以前宝生流で聴いた方が軽やかで浮き立つような雰囲気があった。
重く扱われる曲ではないが、面白く見せるには芸達者でないと無理だと実感。三番目物を能の真骨頂と言うに吝かでないが、このような曲も大事にしたいものである。


狂言 「蚊相撲」(大蔵流)
シテ 山本 則俊
アド 山本 則直
小アド 山本 泰太郎

よく知られた曲であるが、観るのは今回初めて。山本家の狂言は今年の冬に観て以来。久し振りなのでとにかく嬉しい。
大名に則俊師、太郎冠者に則直師。それぞれの持ち味が出て楽しいが、逆はどうなるのかも気になる。二人の言葉のやり取りが実にリズミカル。狂言はセリフ劇だとよく言われるが、東次郎師は音楽劇としての狂言を大事にしている。それがよく解る好例。歌でもなく、セリフでもない言葉の流れは雰囲気こそ全く異なるが、アリアとレチタティーボによるドラマの分断を嫌ったワーグナーの楽劇を連想させる。
言葉の流れの美しさに加えそれを産み出す身体がまた実に結構。流れるように淀みない所作は鍛え上げられた肉体だからこそ可能。発声そのものに息苦しさを感じさせず、その安定感が心地よさを産む。
相撲取りを召抱えることにした大名の意に従い、太郎冠者が街道に出て待つと相撲取りに化けて人の血を大量に吸いたいと願う蚊の精がやってくる。利害関係が一致した二人の話はすぐにまとまり大名の下へ。蚊の精とは知らず刺されて負けてしまう大名。気が遠くなってよろめくところを太郎冠者が支えるところが可笑しい。所作がしっかりしているからこその見事な呼吸。真剣に蚊の精を煽ぐ太郎冠者とそれを促す大名の様子についつい頬が緩む。山本家の狂言は重いと表現されるが、表面的な笑いを追求しないからこそ生まれる軽妙さがあるのではないか。
蚊の精が力尽きつつもよろよろと飛んで行く様子が哀しくも可笑しい。

能 「融」 白式舞働之伝
シテ 浅見 真州
ワキ 宝生 欣哉
アイ 山本 則重
笛 松田 弘之(森) 小鼓 観世 新九郎(観) 大鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 助川 治(観)
地頭 若松 健史

6月に番組を見てぜひ観てみたいと切望したのがこの一番。力量のあるシテが勤める珍しい小書と当代きっての笛方、若手では文句なく最も実力のあるワキ方の競演である。
お調べが聞こえてくる。この瞬間をどれほど待ち侘びていたことか。能楽堂から遠ざかっていた間、自然と耳に甦るのは松田師の吹くお調べだった。実物は脳内のそれを遥かに凌駕していた。
名ノリ笛でワキ登場。吹き始めたその瞬間から舞台は秋浅い都の旧跡の空気に満たされる。欣哉師、「夕べを重ね朝毎の」と謡った瞬間、何日もかけて旅をしてきたのだという時間の経過と距離感を感じさせ、見事。立ち姿に風流を好む僧の仄かな色香が漂う。あくまでも個人的な印象であるが、この方が作り出す装束の線には不思議と他の人には見られない艶やかさがある。
一声でシテ登場。面は三光尉。品のある翁ではあるが、何か思い詰めたような表情。いかにも曰く有り気な様子を漂わせる。
老人はワキとの問答で僧が塩汲み姿をいぶかしむと落胆を露にするが、唐詩を引いて籬が島の景観を称えると、美意識を共有する者として二人の距離が一気に縮まる。上歌「げにや古も〜」は二人が風景を楽しむ場面だが、ワキが端然と佇みうら寂びてはいるが風情のある眺めに満足しているのに対し、老人はかつての栄華を知っているので心中複雑であり平静ではありえない。脇正での僅かな動きで泡立つ内面を表現する真州師は見事。能の楽しみはこういうさり気ないところに潜んでいる。
請われるままに昔語りをし、悲嘆する老人の気を引きたてるように名所数えを促す僧。立ちあがった時老人を包み込むかのごとく、小柄な欣哉師が大きく見えた。対峙して昔語りに耳を傾けている横顔は一心に聞き入っているよう見え、正面から見ると眠そうに見える顔の意外な効能に気付かされる。能は一方向から見ただけで判断してはいけないのだと今更ながら再認識。
登り始めた月明りの下、二人が視線を向けただけで彼方に情景が浮かび上がるようで、一番目とは誠に対照的。徐々に気が昂ぶり僧の肩に手をかけ方向を指し示す老人。それだけの所作が妙に艶めいて見え、老人の異様な熱意が露になる。
つい時を忘れてしまったと慌てて塩を汲む老人。田子は正先で舞台より下に降ろす型。橋掛りで田子を降ろして突然消えうせる態で中入り。
アイの則重師。ただ必死だったころに比べると落ちついて自分を離れた所から見られるようになってきたように思える。無理がなく安定した発声は稽古の賜物か。若手の真摯な姿は良いものである。
出端で後シテ登場。今回の小書では後シテの装束は白一色、黒頭に怪士系統の面をかけるとの事。本日は三日月使用。「融」は小書が豊富な曲だが、それは古作「融の大臣」の内容を受けたものが含まれるかららしい。古作では融は鬼として登場し、今回の演出はその面を強調するものらしいが、実際に見た印象は鬼というよりは異形の神だった。しかしくもらせた面を軽く切ると目に施された金が光りを受け怪しく光り、恐ろしさも漂わせる。黒頭に初冠というちぐはぐさも異様さに一役買っていると思う。
前シテの鬱屈したところはすっかり払拭し、後シテは朗々と月夜の美しさと宴の楽しさを述べる。通常は早舞のところを舞働に替えるとの説明だったが、いきなり舞働になるのではなく出だしは早舞から。正中から舞始めるところの笛の音色は足に震えが走るほど。曲水の宴を実演するごとく、途中2回盃を掬い上げ口元に運ぶ所作を含みながらの早舞と舞働、橋掛りも使い舞台全体を大きく動く。永遠に尽きる事のない渇望、漂う諦観、それらを一瞬放擲し眼前の楽しみに我を忘れる無心、そんな様々な想いを巻き込み開放するかのような濃密な時間だった。複雑なリズムの囃子に緩急のついたシテの動き。その求心力にワキ僧の存在を忘れていた。否、私自身が僧となってその場に居合わせていたのかもしれない。
束の間の宴はやがて果て、融は沈み行く月の光に吸い込まれる様に消えて行く。常座で見送る僧に別れを告げるがごとく左袖を被いて幕入り。狩衣に織りこまれた銀糸が月光を含んだように輝いた。地謡の「あら名残惜しの面影」という言葉通り、去って行くシテの後姿をしばし留めたいと願った。全てを見届けた僧が静かに留めて終曲。正に夢から覚めたような風情。
小書というのは一長一短あると思うが今回は説得力のある素晴らしい出来。まさにこのシテ、この笛でないと作り出せない世界があった。ワキも好演。この場に立ち会えたことの幸福を感謝したい。松田師、益々冴えた音。最初から最後までゆるぎのない世界を形成した。浅見師、様々な情感を表現する巧みさはこの方ならではのもの。この人でなければ作り出せない一夜の夢を現前させた。
本曲は仲秋の名月の晩の出来事である。おりしも昨日は仲秋の名月で、曲中の時間と実際のそれとが重なることは稀である。そんな巡り会わせにもやはり感謝したい。
真円の月を眺めつつ、融はあそこに帰ったのかと思いながら駅から家への道を歩いた。


こぎつね丸