観能雑感
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2003年05月09日(金) 銕仙会定期公演 

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

今回は記録を残すか否か迷い、大分時間が経ってからの記述。席は脇正面寄り中正面後列。

能 「仏原」
シテ 大槻 文蔵
ワキ 森 常好
ワキツレ 舘田 善博、梅村 昌功
アイ 野村 万之丞
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 國川 純(高)

作者未詳。世阿弥、元雅、禅竹のいずれかではと考えられている。シテは成仏を願うのではなく、自ら仏縁を得た仏御前なので、宗教性をより感じさせる。
後見によって若草色の布に覆われた藁葺き屋根の作り物が運び込まれる。本曲に小書があるかどう不明だが、通常では用いないはず。
ワキの着きゼリフに続き、幕内からのシテの呼びかけ。緊張感を伴った妖しげな雰囲気が曲趣を印象付け効果的。TV放送を見て、大槻師の声は特徴的であると感じていたが、存外言語明瞭であった。通常唐織着流し姿のはずだが、無地淡朽葉の摺箔、尼僧姿で登場。先程の作り物に続き、独自の演出を用いているが、意味があるかは疑問。夕暮れ時、若い里女が声をかけて来るところが異様なのであり、いわくありげな尼僧が登場したのでは、その効果が半減するのではないか。現在より遥かに尼僧が身近な存在であってもである。また、尼僧姿では女性の正体が仏御前である事をあからさまに宣言しているようで、仮の姿と実体との間に落差がなく、面白くない。通常通りの形で観たかった。
クセは浅見真州師率いる地謡が銕仙会らしくリズミカルで華やかに盛り上げ聴き応えあり。シテの居グセも隙なくきまる。中入はせず作り物の中に消える。
万之丞師をアイで観るのは初めて。狂言座から立ち上がった時の袴の裾の乱れが大きく、気になる。語りそのものが平板で時間稼ぎの感あり。
すぐ前の席が空席だったため、舞台が良く見え、今日は運がいいと思っていたのは開始から数分間のみ。隣の席の女性の挙動に悩まされる。左右に大きく身体を動かし、何故これほどまでに?と思うくらい頻繁に座り直す。衣類の素材の為か、その都度ガザガザと耳障りな音を立て続ける。能楽堂に限らず、客席と名のつく所に座って経験した、最もはた迷惑な隣人。間語りが終わるまではなんとか我慢していたが、後場が始まってもいっこうに治まらず、こいつは堪らんと意を決して話しかけた。必要最小限の音量で、丁寧に。少なくとも自分ではそう思っている。
「すみません。あまり体を動かさないで頂けますか?」
彼女の返答は以下のとおり。
「前の人が動くから見えないの。この人、すっごく動くでしょう?」
とても納得できる論調と語調ではなかったが、何分演能中なので、表情筋が緊張するのを自覚しつつ舞台に向き直ったが、それ以降の舞台上の様子は目に入っても心には届いてこなくなった。後述するような思考に捕われてしまった為である。
彼女の言う「前の人」については、話しかける前に観察済みである。前列の人の挙動が影響しているであろう事は当然予想出来たからだ。その結果、「すっごく」動いてなどいなかった。男性で比較的背が高いので、その分見え難いのは分かる。全く微動だにしないとは言えないが、前屈みになっているわけでもなく、これをすごく動いていると評するならば、見所のかなりの人が相当動いている事になるのではないか。彼女の行動を是とするならば、見所全体はすごい事になっているはずである。彼女の論調は、「自分さえ良ければ他者がどれほど迷惑しようと一向に構わない」と宣言しているのと同様であり、そのあまりにも自己中心的な正当化に唖然とした。彼女のすぐ後ろの席に人がいたかどうかは定かでないが、もしいたのならば彼女が主張している迷惑の何十倍ものそれをかける事になる。そして隣の私もこちらの体に触れそうなくらいに体を倒してきて、尚且つ耳障りな音を立て続ける行為に迷惑しているのである。自分自身、前の人の観賞マナーが悪くて、今日は良く見えなくて厭だなぁと思うことはよくある。しかしだからといって、その迷惑を倍増させて他者に伝播しようとは思わない。客席は知らぬもの同士の集まりであり、そこに秩序を成り立たせるならば、互いにマナーを守るしかない。彼女の右側の席は空いていたので、見え難かったのならば、そちら側に体を倒していれば、他者に迷惑をかけず少しは視界を改善できたのではなかろうか。
さらにこちらは敬語で話しかけているのにもかかわらず、このぞんざいな応答はどうであろう。年の頃も然程違わない相手であった。不快感倍増である。
後場は感想を書ける程に集中できなかったが、敢えて記すなら、序ノ舞でも軽めだった事だろうか。仙幸師の笛、療養から復帰した後は冴えていて、この日も清澄かつ陰翳に富んだ響きであった。囃子方が橋掛りにかかるまで拍手は起こらず。
大槻師を実際に観るのは初めてで、大変期待していた舞台だったのだが、このような事情で全く楽しめなかった。無念である。クセの「げにや思うこと、叶わねばこそ憂き世なれ」のとおりである。

狂言 昆布柿(和泉流)
シテ 野村 万之丞
アド 野村 与十郎
小アド 野村 萬

先程のアイに続き、万之丞師大活躍である。淡路と丹波のお百姓が年貢を納めに行き、所望された和歌の出来が良く、雑役、雑税を免れ、酒を振舞われる。名を尋ねられたが両者とも奇妙奇天烈な名前で、奏者を通さず直接申し上げる事となり、拍子にかかって言ったところから、奏者をも巻き込んで楽しく舞踊る事に。
先の出来事がまだ尾を引いていて、全く集中できなかった。件の女性が席を立ったので、気分を害したのだろうかなどと、いらぬ考えもよぎり、なんだかこちらの方が悪いみたいだなぁと、思考の迷路化状態。万之丞師と比べると、やはり与十郎師は所作が丁寧で、声にも抑揚があり、実演者としては数段上の印象。片足で飛び跳ねる所作があるのだが、高齢で長袴を着た萬師より万之丞師の方がぎこちなかったのは、体型と鍛え方の差によるものだろうか。囃子は一番目の囃子方に太鼓の三島元太郎師が加わった。三島家は小柄な血筋らしい。

能 「鵜飼」真如之月
シテ 観世 銕之丞
ワキ 村瀬 純
ワキツレ 村瀬 提
アイ 野村 与十郎
笛 一噌 幸弘(噌) 鵜澤 洋太郎(大) 小鼓 亀井 広忠(葛) 太鼓 三島 元太郎(金)

三卑賎のうちの一曲だが、後シテは地獄の鬼であり、前シテの成仏を確約するので悲惨さは少ない。舞台が甲斐の国、石和で、私にとってはご当地能である。ワキの旅僧は日蓮を模しており、私の生まれた町は日蓮宗の総本山である身延山に比較的近い場所に位置する。その為か家の宗派も日蓮宗である。私自身は特定の信仰は持たないが。石和川で鵜飼が盛んだったとは、現在ではちょっと想像がつかない。
アイの里人とワキ僧とのやり取りが、他に例がないほど険悪で面白い。
前シテ、禁じられた鵜飼を見つかり、簀巻きにして川に放り込まれる様を語る際、表面張力ギリギリで水が溢れ出すごとく、抑えた感情が吐露して迫力十分。橋掛りで鵜飼の様を見せる際、クモラせてから徐々にテラス所作で黒く沈んだ面が照明を受け照らし出され、詞章通り月の出を効果的に表現していた。
後シテは早笛に乗って颯爽と登場。鬼とは言っても地獄の番人という役所でどこか爽やか。若い囃子方の元気の良い演奏が気持ち良く響く。この小書が付くと、後場ロンギの前にイロエが入るという事だろうか。パンフレットには言及されていなかったので、正確な事は不明だが、観ていてそう思った。銕之丞師、謡、所作ともに丁寧で良い出来。こちらも囃子方が橋掛りにかかるまで拍手が起こらなかった。
件の女性はニ番目開始直前に戻ってきた。前の人は微動だにしていない時でも、相変らずガサガサと音を立てて動いていた。
開始間もなく、前列の女性が口元をハンカチで押さえて退席。暫くして戻って来た時、通路に面した私の隣の席が空いていたため、そこに着席。演能中、人の前を横切る事を避けたのだろうと、大して気にも留めなかったのだが終演後、「突然隣に座ったりしてごめんなさいね」と声をかけて下さった。暗澹たる気持ちが少し晴れた。いろいろな人がいるものである。


こぎつね丸