観能雑感
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2003年04月26日(土) 国立能楽堂普及公演

国立能楽堂普及公演 PM1:00〜

解説付きの普及公演に足を運ぶのは初めて。見所は予想に反して高齢者の方々が目立ち、どの程度普及の意味があるのか少々疑問。
開演前、檜書店の出張売店で世阿弥がらみの歴史小説をつい購入。文庫本だが京極夏彦氏の作品群に匹敵する程厚い。杉本苑子氏の名著が既に存在しているので、これを凌駕するのは困難な気もする。
中正面正面席寄りに着席。

解説・能楽あんない
桜川と狂女  脇田 晴子

脇田氏の著作を1冊だけ所有している。その他に研究論文を一本読んだ事がある。著書では女性芸能者を系統立てて扱っていて、なかなか興味深かった。能に関連したところだと、「班女」の遊女を「隅田川」の母親であるとしていたのに瞠目。確かに相手の男性と父親の名前は吉田である。
「桜川」のあらすじ紹介から始まったが、正直手際が良いとは言い難かった。しかし作品中曖昧になっている僧と身売りした子供との出会いを、僧が人商人から買い取ったとし、子供を慰めるためにわざわざ桜の名所を訪れている事から、稚児として大事にされていたのだろうとの推察に納得。中世経済史がご専門だそうで、人身売買の実際の相場の説明があったのは面白かった。それによると普通の男の子より白拍子の子供の方が7倍の値段で取引されたそうである。ただ、当時の貨幣単位だったので、現代の価値に換算すると如何ほどになるのかは不明。また、夫を亡くした女性が尼になるのは、中世では生きて行くための知恵であるとの説明にも納得。狂言の「泣尼」成立の背景が浮かび上がってくる。
後半は狂女物全般についての解説。観阿弥、世阿弥、元雅各々の作風の違いをそれぞれの立場から説明し、こちらも面白かったが、能を観慣れている人にとっては周知であるという感あり。普及公演での解説なのでこれでいいと思う。
ゆったりとした関西弁で語られると「世阿弥」という聞きなれた言葉に別のニュアンスが加わるようで、新鮮だった。

狂言 「佐渡狐」(和泉流)
シテ 野村 又三郎
アド 野村 小三郎
小アド 佐藤 友彦

本曲を観るのは三度目。となると、流儀、家ごとの違いを楽しむ方が主眼となる。
小三郎師、活舌が良いのか言葉が明瞭。特に気張らずとも声量があり、妙な息苦しさを感じさせないのは大変結構。ただ、カマエが腰高であるのと、角取りの際、本人の視線が見所から見て目に付くのが気になった。恐らく視点を近く、低く置き過ぎているからなのだろう。
又三郎師、年齢を感じさせない所作、声量。性格俳優のごとき緻密さを見せる萬師とは対照的に、ゆったり気負わず、それでいて「役」になっている。佐藤師、声量があり、身体がしっかりしているという印象。所作も丁寧。
佐渡のお百姓が秦者に賄賂を渡す場面は見せ場のひとつだが、大蔵流ではお百姓が奏者の袖に金子を滑り込ませるのに対し、ここでは受取りあぐねている奏者の下に金子を置いたままお百姓は下がってしまい、奏者はあたりを覗いながらそれをしまう。
越後のお百姓に狐について質問され、背後でやりとりしているのに気付かれそうになると、二人がビクッとするのが可笑しく、動作が完全に調和していたのが見事。
最後の狐の鳴き声も、流儀、家によって異なっているようである。
三者が良い緊張感を保ってはいるが、圧迫感がなく穏やかな空気の流れる舞台であった。
ちなみに現在の佐渡には狐がいるそうである。

能 「桜川」(観世流)
シテ 関根 祥六
子方 関根 祥丸
ワキ 福王 茂十郎
ワキツレ(旅僧) 広谷 和夫、福王 知登
ワキツレ(人商人) 是川 正彦
ワキツレ(茶屋) 山本 順三
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 佃 良勝(高)

母の窮状を見かねて子供自ら身売りするという悲惨な設定ではあるが、全編桜がらみの言葉に溢れ悲壮感は不思議と少ない。都から遠く離れた東の地にある桜の名所、その名も桜川というところに、当時の観客は雅趣を見出したのだろう。
ワキツレである人商人が登場し、身売りした桜子の手紙を持って母の下を訪れる。是川師、顎を引き過ぎなのか、立ち姿が反り返り気味に見える。長身。
ワキツレの呼びかけにシテである母親が登場。ここで隣の席のご婦人が双眼鏡片手に揚幕方向へ身を乗り出す。中正面からだと左側にあたり、こちらに背中を向けた形となり、視界が完全にふさがれる。さすがにこれには抗議させていただいた。しかしその後も彼女は首から下げたメガネと双眼鏡をとっかえひっかえし続け、そのたびにカチャカチャと音がし、肘が触れ(肘掛は彼女が占領している)、集中力を妨げられる事この上なかった。舞台は観客が各自一対一で相対するものであり、どのように楽しむかは人それぞれであるが、周囲への配慮を欠いてはならない。己の行動が他者の観賞を妨害しているのかもしれないのだから。
橋掛りでの二人の緊張感溢れるやり取りは、視界が塞がれたためよく見えなかった。手紙をしまい、本舞台に歩を進める様は、その一歩一歩に母親の子を探しに行こうという決然たる意思が表れており、目を引いた。
ワキの僧と従僧、子方が登場。次第が不揃い。やはり福王流は長身の方が多いと改めて思う。茂十郎師、コトバに情感がこもらないという印象はいつもどおり。
ワキツレの茶屋の呼びかけに呼応し後シテ登場。狂女の出としては大小が重く感じられ、シテの意図との間に齟齬か若干感じられた。
その後カケリ、イロエ、クセ、網之段と見所、聴き所が満載なのだが、どうにも集中力を欠いているせいか、強い印象は残らなかった。シテの謡が意外に聞き取り難かった事は予想外。舞台そのものに強い求心力を感じなかったのは、こちら側の不備だけとは言い切れなかったように思う。技量が素晴らしいのは言うまでもないのだが。網はバランスを取るのが難しそう。
地謡は祥人師を地頭に、中堅、若手で構成。前列の一部にやや物足りなさを覚えたが、これだけ謡えれば及第点か。子方の祥丸君、殆ど脇座で座りっぱなしなのだがよく耐えた。
仙幸師の笛、透明感の中にも一抹の翳りがあり、曲趣を遺漏なく表現していたように思う。見事。
何とはなしに物足りなさが残った。もっと良い状態で祥六師の舞台を改めて観てみたいと思う。

プログラムに掲載されている詞章の最後に「上演に際し、詞章に多少の異同がある場合もございます。あらかじめご了承下さい」との注意書きが添えられていた。以前にはなかったもの。観客からのクレームに対応したものなのだろうが、言い間違え、絶句は折り込み済みである事を宣言しているようにも取れ、複雑な想い。


こぎつね丸