観能雑感
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宝生会月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜
統一地方選挙当日。投票を済ませてから会場へ向かう。都知事選の投票率は40%を下回った。これでいいのか、ニッポン。一票を投ずるに相応しい候補者がいないならば、たとえ白票でも投票した方がいいだろう。今の政治に失望しているという明確な意思表示になる。 4月中旬だというのに気温は20℃を越えた。これから憂鬱な季節が始まる。私は夏が大嫌いなのだ。 本日の曲のうち「祇王」、「草薙」は著作権の切れた図書を公開している国会図書館サイト内のデジタルファイルで辛うじて詞章を読み流したのみ。古書店に行きそびれて謡本入手ならず。新品だと1冊2000円以上するので、詞章の確認のためだけに購入する気にはなれない。能楽堂内の書店で袖本を扱ってくれるといいのだが。 ロビーで本日ご出勤の高橋亘師が挨拶なさっていた。洋服姿。紋付でないのは珍しいなぁと思う。 中正面正面席寄り後列に着席。
能 「志賀」 シテ 佐野 萌 シテツレ 辰巳 満次郎 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛、御厨 誠吾(番組に記載なし) アイ 大藏 彌太郎 笛 一噌 幸弘(番組上は幸政師)(噌) 小鼓 住駒 国彦(幸) 大鼓 内田 輝幸(葛) 太鼓 小寺 真佐人(観)
大伴黒主がシテの脇能。六歌仙の一人である。そう言えば、六歌仙は皇位継承を巡って藤原氏と対立し敗れ去った人々だとする説をどこかで読んだなぁと思っていたところ、書店で『QED』シリーズの2作目『六歌仙の暗号』が文庫化されているのを発見、購入。まさにその点を扱っていて面白く読んだが、本曲は仮名序における黒主の形容と中世歌学を組み合わせたもので直接関係はない。 お調べの笛の音を聴いていて「幸政師ではなさそう」だと思っていたところ、やはり違った。急病なのだろうか。 脇能でのワキは、幕離れしてすぐ三の松でうにょーんと伸びをし、ワキ座についてから再び同じ動作をする。脇能のみに見られるこの所作、何か意味があるのだろうか。以前から気になっている。私はこれを見るのが何故か好きである。 脇能におけるワキ方の役どころは勅使であるのが圧倒的に多いが、この役が最も似合うのは欣哉師だと思っている。晴れやかで品があり颯爽とした雰囲気が脇能にぴったりである。 樵姿のシテ、ツレが登場。辰巳師、謡明瞭、立ち姿も良い。シテは笑尉。桜の枝を差した薪を背負っている。舞台に入ってワキとの問答で歌道に励む事は仏道に精進する事と同じであり、良い治世に繋がるという中世歌学が語られる。三十一文字にはそれぞれ神が宿っており、仏の特徴である三十二相と同じであるというのがその所以。仏相にはひとつ足りないが、その内のひとつである頭頂の瘤は、頭髪に隠れて見えないのでこれで良いとのこと。以前荒俣宏氏の著作で読んだ。佐野師、ご高齢にもかかわらず下居姿が誠に端正。このように良い緊張感を保った下居姿、実は中々お目にかかれない。置いてあった杖を持ち直す際、指先で少し転がしてしまって一瞬ヒヤリとしたが、難なく処理。正体を明かして中入。 彌太郎師の間語、口吻が悪いのか、発音が一部はっきりせず、聞き取りずらい。 出端で後シテ登場。透冠、黒垂、面は邯鄲男。佐野師の謡は趣があって良いのだが、音量はそれほどないのでサシ謡が完全に囃子にかき消されてしまった。真佐人師の演奏を聴くのは久しぶり。一年以上経っているのではないだろうか。「イヤー」の掛け声が父上と良く似ている。若いが堅実で、これからが益々楽しみ。 神舞は豪快に動き回るというよりは品位を保って颯爽と、といった風。流儀の主張によるものだろう。これはこれで良い。ただ、邯鄲男の眉間に刻まれた深い皺、憂鬱な表情を見ていると、曲趣とは全く関係ないのだが、藤原氏の権力独占で古代から続く名氏族である大伴氏が衰退してゆく様を想起してしまい、無常感に捕われた。 琵琶湖を背景に咲き誇る満開の桜と、華やかな舞台設定のはずなのだが、それを感じないまま終曲。地謡が聞き取り難かったのが関係しているのかもしれない。宝生流の強吟は、自分にとって聞き取り難いのだろうか。黒主の実在自体が疑わしく、黒主明神という神の存在そもののが曖昧で掴み難いせいもあるだろう。練り上げるのは困難な曲といえるかもしれない。悪くははいが若干消化不良気味。
狂言 「文荷」(大蔵流) シテ 善竹 十郎 アド 善竹 大二郎、善竹 富太郎
和泉流では観た事のある曲。内容は同じだが細部は異なる。こちらの方が長閑な雰囲気。 主の恋文を届ける太郎冠者と次郎冠者。和泉流ではどちらが使いに行くかで押し付け合うが、こちらはあっさりと二人で出かけて行く。途中「恋之重荷」の一部を謡うのだが、セリフの中で「恋之重荷の謡を覚えた」という表現があって、直接的。重い文だから疲れたと言って休憩、中身を覗いてしまうのがなんだかすごいが、仕様人が主人の行動を気にかけるのは仕方がない。何とか理由をつけてサボりたいというのも解る。十郎、富太郎親子の笑顔は自然でゆったりとしていて、穏やかな気持ちになる。野村家の若手に見られる不自然な表情とは対照的。 二人で文を取り合い、破れてしまったのを主人に見つかり、「お返事でございます」と破れた文を渡すのは同じ。明るく軽やかな雰囲気で和んだ。
能 「祇王」 シテ 高橋 勇 ツレ 高橋 亘 ワキ 殿田 謙吉 アイ 大藏 千太郎 笛 内潟 慶三(森) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 柿原 崇志(高)
宝生、金剛、喜多各流の曲。宝生流では「二人静」を廃曲にしたそうなので、相舞があるのは本曲のみという事になるのだろうか。 宝生流の会では「宝生の能」というその月行われる全ての定例会を網羅した曲目解説付きのパンフレットと、相当する会のみ記載した小さな番組表の2種類が観客に渡される。両者において、出演者が異なっている事があり、今回も笛が片や松田弘之師、片や内潟慶三師であった。お調べを聴いて寺井家系の音だと思ったが、やはり内潟師が現われた。 ワキが登場し語り始めたあたりで、突然隣の席のご婦人に「お稽古してらっしゃるの?」と話しかけられる。全く想定外の出来事に驚きつつも咄嗟に返答してしまう。「してらっしゃらないの?よく退屈しないわねぇ、えらわねぇ〜」と言われる。うーむ。複雑。彼女は地謡座のご自分が習っている先生とその隣に座っている好きな先生を説明して下さり、「国文科?違うの?本当にお好きなのねぇ」と感心されてしまった。私が学生だったのは一昔前の事なのだが……。話しかけて下さるの結構だが、何故曲が始まってからなのだ…。そしてこういう時は反射的に返答してしまうものなのだ。演能中の私語は慎むべきだと思っているが、今回は不可避の事態だった。最小限の音量で話したつもりだが、周囲の方々、申し訳ない。 平家物語の有名なエピソードを下敷きに、祇王、仏御前の友情を描いているが、見所はやはり両者の相舞であろうと思われる。ワキの瀬尾太郎によって仏御前が清盛へ目通りが叶うよう祇王が出仕を控えていた旨が語られ、両者供に出仕するようにとの命を伝えに二人の元を訪れる。 ツレの祇王を先頭に橋掛りに両名が現われる。入紅唐織着流し、面は小面。シテが叔父、ツレが甥、地頭はシテの兄と親族共演。亘師、地謡座でも姿勢の悪さが目立つが、立ち姿が美しくないのはシテ方として致命的なのではなかろうか。目付柱に付近で斜めに下居するが、これも締りがなく美しくない。立ちあがったときの後姿の無残さに唖然とする。一方仏御前である勇師は謡、カマエともに見事。中入真際にシテがツレに近付き腕に手をかけるという直截的な所作があり、空気が変わった。 アイの千太郎師、声はあまりこもらなくなったように思うが、語りそのものが若干間延びし単調。間語りはやはり難しいと思うが、これがきちんとできなれれば狂言方として一人前とは言えまい。精進を期待したい。 後シテ、ツレは薄色に草花の文様が入った長絹に金の前折烏帽子。中之舞を舞う。ワキより仏御前一人で舞うようにとの清盛の命が伝えられ、祇王はその場を去ろうとするが仏御前がそれを止め、二人でなければ舞わないと主張、再び相舞でクセ舞を舞う。二人が至近距離で見詰め合う所作があり、こちらも直接的でちょっと驚く。 クセで清盛の放埓振りとその寵愛もいつまで続くのか分らないという、白拍子の身の空しさが語られる。視界の狭い女面を掛けての相舞、互いの姿は見えないと思われるので大変だと思うが、途中、はっきりとずれてしまうところがあり(正面から右に向くタイミングがツレの方が大分早かった)、これはさすがにマズイだろうと思う。足拍子もはっきりズレた個所あり。隣同士で舞っているので両者の技量の差がはっきり表れる。 互いにライバルでありながらも寄る辺ない境遇にある二人が友情を育むという曲の着想は面白いが、良い舞台に仕上げるのはシテ・ツレが拮抗していなければならない。相舞を舞うのは勇気がいると思うが、配役に無理があったか。
能 「草薙」 シテ 亀井 保雄 シテツレ 野口 聡 ワキ 森 常好 アイ 大藏 吉次郎 笛 藤田 次郎(噌) 小鼓 幸 信吾(幸) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 三島 卓(春)
宝生流のみの曲。刀好きなので曲名からして気になる。 先程のご婦人が帰られるとの事で、席を譲って下さり、一番正面席寄りに着席。観客により視界が遮られない席なのでありがたい。 熱田神宮でワキの恵心僧都が最勝王経を講じているところに花売りの夫婦が現れる。シテが直面でツレが面をかけているのは珍しい構図。経に感謝し、正体を仄めかし中入。 後シテは半切、法被、側次、黒垂、透冠、面は不明。天神か?ツレは黒垂、小面、長絹。ただ出てきただけですぐに下居。シテは床几に腰掛けクセで、草薙の言われ、日本武尊による東夷討伐が語られる。舞働もなく仕方話のみ。ツレは橘姫(オトタチバナヒメのことか?)。記紀に登場する古代の英雄が経を尊ぶという構図が分り難く、最勝王経との関連も不明。本地垂迹としても無理がある気がする。後場があまりにあっさりしていて物足りなさが残った。期待していただけに残念だが、まあこんなところだろう。 幸信吾師、やはり掛け声が不気味である。 地頭は近藤乾之助師。地謡が三曲中最も良かったように感じた。
番組の表記と実際の舞台の出演者が異なる事に対して、開催者は観客に知らせるべきではないだろうか。以前にもこのような事があったが、演者の顔と名前が一致する人ばかりが観ているとは限らないだろう。番組によって出演者の記載が異なるのもどうかと思う。特に代演等の告知が張り出されていはいなかった。私が気付かなかっただけだろうか。「志賀」の後見には宗家の名前があったが、こちらも当然のように欠勤。たとえ気にかける人がいないとしても、主催者は観客に正確な情報を提供する義務がある。
こぎつね丸
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