観能雑感
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2003年04月11日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 宝生能楽堂 PM6:00〜

やっと持病が落ちついてきたのはいいが、それとほぼ同時期にイラクへの軍事行動が開始され、ただでさえ冷え込んでいる案件が減少。あまりのタイミングの良さに笑える。人生もはや消化試合の感あり。理想としてはさっさと隠居したいのだが先立つモノなど皆無なのでそうもいかない。秋山小兵衛への道は遠のくばかりである。
駅の階段を登り切る真際、松岡心平氏が横切って行くのが見えた。世間というのは案外狭いのかもしれない。会場で村尚也氏を見かける。
中正面好きの私だが、銕仙会の定期公演でここに座すのは今回が初めて。理由は簡単。チケット予約前に売切れてばかりだったからである。脇正面寄り前列。目付柱の正面。

狂言 「花盗人」(和泉流)
シテ 野村 萬斎
アド 野村 万之介

花盗人と庭の主との風流な遣り取りが本曲の眼目だろうと思われるが、他人の庭の桜を盗んで貴人に献上、好評だったので再度盗もうとする盗人の倫理観を問いたくなる。後に故事を引いて己の立場を正当化するが単なる言い訳以外の何物でもなく、主のように酒を酌み交わす気にはなれない。私が激しく狭量なのだろうか。
万之介師のハコビが滑らかなのに対して萬斎師はガクガクと落ちつかない。体重移動が円滑に行われていないのだろうか。一歩一歩、連続していないように見える。
橋掛りから桜を愛でる盗人。作り物が出ているのにもかかわらず花を見ているという感じが伝わってこない。先月観た萬師が目線と言葉だけで満開の桜を現前させたのとは大違い(比較すること自体無理があるのは承知している)。後の小唄でも言葉だけが上滑りして花も月も見えてこない。型として月を眺めているのにこの空々しさは何なのだろう。言葉と所作で見る者の想像力を刺激するのが能狂言の面白さである。表面上朗々と響く謡はただそれだけのものだった。萬斎師、いろいろなさるのは結構だが、「狂言を通しての表現の可能性」を追求するのであれば、肝心の狂言にもっと心を入れた方が良いのではなかろうか。こちらも言葉のみが上滑りしている。
盗人の風流ぶりに関心した主が褒美にと自ら桜を一枝手折って渡す。主の寛大さのみ印象に残った。思えばこの人物、無聊を紛らす話し相手が欲しかったのかもしれない。
盗人の人間性が引っかかって、春の華やかさとは対照的に心浮き立つものがなかった。別の演者で観たら異なる感想を持つのかもしれないが、どうにも楽しめなかった。

能 「柏崎」思出之舞
シテ 浅見 真州
子方 小野里 康充
ワキ 殿田 謙吉
ワキツレ 宝生 欣哉
アイ 野村 万之介
笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(高)

形式上は子との再会を願う物狂物だが、詞章を読むと子に対しての執着よりも夫に対する思慕と阿弥陀仏崇拝が全面に出ており、終曲部での母子再会は付けたしめいた感がある。榎並左衛門五郎の作を世阿弥が改作したと考えられているそうだが、焦点が絞り込めていないのはそのような制作背景があるからかもしれない。しかし阿弥陀仏信仰を通して語られる宗教感は魅力があり、本作の存在意義は十ニ分にあると思われる。
今回は現行では削られているアイ、子方のセリフがあり、シテの舞が加わった形での上演。この小書は舞が加わる事を意味するのは解るが、アイ、子方のセリフの挿入との関係は不明。
お調べは笛に始まり笛で終わるが今回は小鼓が最後まで鳴っていた。舞台上でも調べ緒を締めなおしていたので楽器の状態が思わしくなかったのかもしれない。
何事もなくシテ登場。橋掛りを歩んでくるその姿が実に端正で美しい。無紅段唐織、模様は秋草か。面は曲見。浅見師、深井よりも曲見の方がお好みなのだろうか。鬘桶に腰掛けるが調度目付柱に阻まれて見えない。
次第でワキ登場。守り袋を下げ、笠を被っている。雪の中遥々鎌倉から柏崎まで旅してきたのだという距離感が伝わって来る。
シテと対面し、言い難いながらも主人の死を伝える。淡々と話していたシテの語調が鮮やかに切り替わり、哀しみに包まれる。僅かな動きで夫に先立たれ子も姿を見せる事無く出家してしまった女性の動揺が表現され、浅見師、相変わらず見事だなぁと思う。夫の死と子の遁世を知る前と後とでは、面の瞳の力さえ、弱々しく見えてくるくらいである。相談もせず出家した子を薄情だと思いつつも、手紙を大切に胸にしまい、無事を祈る姿に母の想いの深さを見る。
シテの中入に続き、善光寺の住僧と息子花若、アイの能力が登場。子方の小野里君は小野里修師の息子さんだろうか。4歳くらいに見える。小さいながらも出家の役なので角帽子に絓水衣とワキツレと同じ扮装。可愛らしい姿に見所が僅かにざわめく。欣哉師、こちらも相変わらず実に美しいハコビ。このところ素袍、直垂と足の見えない役を続けて見ていたので、白足袋に包まれた小さめの足が流麗に動く様を目にする事が出来て嬉しい。
能力は『山姥』の内容を引用して善光寺への参詣について語る。『三井寺』と同じく狂女を発見してその旨を報告、地謡前で下居。
一声で後シテ登場。小鼓がポポッとオドッて常の一声とは異なる雰囲気。狂女の出に相応しい。これを「狂女越」と言うそう。不安定で足早なシテの登場、いかにも狂女という昂ぶった様子。心ここにあらずといった態で長距離をひたすら歩み続けて来た感じがつぶさに伝わってくる。囃子の巧みさとシテの演技の確かさが相乗効果を生んだ。カケリの後、僧に女人の立ち入り禁止を言い渡されるが阿弥陀仏信仰を引いて巧みに反論。クルイの後、子方が狂女が母である事を僧に告げる。
夫の形見である烏帽子、直垂をささげ、死後の安穏を願うシテ。詞章を読んだ時に「なぜこの女性は善光寺に向かうのか。子供がどこにいるかは知らないはずなのに」と疑問だったのだが、パンフレットにより善光寺は古くから追善供養が盛んである事を知った。当時の人はこの善光寺行きに関してごく自然に納得できたのであろう。物着アシライの中、烏帽子直垂を身に付ける。主後見の野村四郎師が手際良く着付けて行く。直垂と言っても直垂模様の長絹であり、烏帽子も前折烏帽子と女性用の扮装である。ここで常にはない舞が挿入される。中之舞を予想していたが、二段の序之舞のようであった。「鳴るは滝の水」と来ると、『安宅』のように勇壮な舞を連想してしまうので、静かな舞にやや戸惑う。しかしここで男舞はありえないのでこんなところか。退屈しているわけでは全くないが、シテの優美な姿と繊細で機敏な地謡の心地よさに眠気が生じてくる。この後、生の儚さと極楽浄土への憧れが二段の舞グセでたっぷりと語られる。極楽はそれぞれの内にあるという教えには心安らぐ。最後にめでたく子と再会して供に立ち去り終曲。子供は還俗するのだろうか。この点は不明のまま。やはり横溢する宗教性と夫への思慕に対しこの再会劇は付けたしの感が拭えない。めでたく留めるという機能は果たしているけれど。
能力、子方のセリフ、舞を挿入しての演出だったが、もともと焦点が定まりきれていない曲だけにやや冗漫であると感じた。これらを省いたのはかなり早い時期のようだが納得できる処理である。特に舞は後に二段の舞グセがあるのであえて挿入しなくてもよい気がした。イロエを入れる演出もあるようなので、その方がすっきりするのではないだろうか。浅見真州師という卓越した演者が勤めてこそ、魅力が生ずる演出だという気がした。舞グセの際、7割程度の覚醒状態だったのだが、シテの姿の優美さとそれに呼応する地謡にゆらゆらと耽溺して、こういうの時にはいいか…と思った。地頭は浅井師。このところ地頭としての統率力を益々つけてきておられるようで、頼もしい。真州師、どんな曲でも美しくまとめ上げる事が出来るのがこの方の強さであり弱さであろう。しかし一曲を通してこれだけ隙のない優美さを提供できるその身体技能は、ただ見事と言うほかない。師の舞台はこれからも出来るだけ多く観たいと思う。

やはり…と言うべきか、狂言のみ観て帰って行く女性の姿がちらほら。この種の方々の反論として、「狂言を観ない人もいるではないか」というのがあるが、シテ方主催の会なのだから、どちらがメインかは自ずと明らかであろう。銕仙会は昨年の定例会、青山能の両方でシテが真州師の時の狂言に萬斎師が出勤だった。集客力のあるシテ方だけに何故そういう番組を組む???と思っていたが今年もこの組み合わせで複雑な心境。真州師の舞台が観たくても、チケットを取り損ねた方がいるのではないだろうか。「早いもの勝ち!!!」と言われればそれまでだが、有効に活用された方がいいと思うのも事実である。


こぎつね丸