観能雑感
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2003年04月10日(木) 映画「能楽師」

映画「能楽師」 AM10:30〜 ユーロスペース2

雑誌「DEN」2003年1月号に本作品のチケットプレゼントが掲載されていた。応募してみたら何故か当選。嬉しいが貴重な運を些細なところで使い果たしているような気がしないでもない。
TVにて米英軍によりイラクが「開放」されたかのような映像を目にしながら出かける準備をする。あまりにも明確な意図が全面に押し出されており不快感を禁じえない。多数の罪のない民間人を殺傷し、強引に推し進められている今回の軍事行動、石油の利権獲得とテロ抑止の名の下に行われている他国の主権侵害に他ならない。ひとつの価値観、理想を押し付ける事が新たなテロを呼ぶ事に、ネオ・コンサヴァティブと呼ばれる人々は何故気付かないのだろう。アメリカがグローバルなのではなく、アメリカのローカルを全世界に押し付けてそれをグローバルと呼んでいるのにすぎないのに。
何にせよ、これでブッシュの再選はほぼ決まりだろう。国内世論をまとめるために他国を利用するのは止めてもらいたい。払われた犠牲の大きさとあまりにも一元的な価値観の強要に、ただただ空しさと怒りが込み上げてくる。

会場に到着するとすでにかなりの人数が並んでいた。狭い館内はほぼ満席状態。能楽堂の観客席における年齢層と同じで、高齢者が目立つ。予告編を長々と見せられてうんざりする。

本作品は観世流シテ方関根祥六、祥人親子を追ったものである。ただ眼前の対象を撮影し、ナレーションは佐野史郎による世阿弥の著作「花伝書」、「花鏡」等の朗読のみ。製作者側の主観を極力排除した編集方法が、昨今のTV番組に散見するナレーションを多用し、製作者側が視聴者をある一定の方向に誘導しようとするトキュメンタリーとは対照的で、新鮮でさえあった。本来ドキュメンタリーとはこうあるべきであろう。
関根親子の対談を挟みながら、新年の謡初めや、玄人を対象とした稽古風景、鏡の間の様子など、普段観客が目にすることのない貴重な場面が次々に登場。特に印象に残ったのが関根家の稽古舞台。鏡板が引戸になっていて、後ろから同じ大きさの鏡が現われた。能舞台がダンススタジオに変身。この鏡の前で祥人師が袴をたくし上げ、乱拍子の稽古をしていた。何とも合理的な設計。
祥人師が勤めた「道場寺」の鐘入り前後、祈りの場面などかなりまとまった時間見せ、舞台の緊張感がこちらにも伝わってくる。この舞台の事は能評で読んだ記憶があるが、すでに定かではない。小書付きなのは映像から解る。前シテの装束の柄が常とは事なり、後ジテは赤頭に緋長袴、面は金色の彩色が施された般若だろうか。それにしても近江女とは何と不気味な表情をしているのだろう。
世阿弥の著作における稽古方法や気持ちの持ち方について、いかに合理的であるかを祥六師が語る。数百年を経ても色褪せるどころか益々光りを増すばかりのその理論、世阿弥という人間の偉大さを改めて思った。小手先の表現に流れず、まずしっかりとした身体を作ることが大切というのは、個性と我がままを混同した人間を大量に産み出した現代の教育現場にも当てはまるのではないだろうか。規範あってこその個性である。
ところで「稽古は強かれ、じょうしきは無かれ」という花伝書の有名な一節がナレーションで流れたが、現代人はまず「常識」と理解してしまいそうな気がする。これは「情識」であり、勝手な考えを意味する。
祥人師が気持ちの在り方と身体の関係について語りながら構えてみせる場面は、内に込める力が能にとっていかに重要であるかを見せていた。気を抜いた状態とそうでない時とは、身体そのものだけでなく周囲に漲る緊張感までが違ってくる。身体における内面の充実こそが、能を能たらしめているのだ。
祥人師が外出する際、ご子息の祥丸君が玄関で靴べらを手渡し、お母様といっしょに門の外にまででて見送る。立ち去る父の姿にピョコンと頭を下げる息子。親子の間に礼儀があり、それがごく自然である事に新鮮な驚きを感じた。親子であり師弟関係でもあるという、特殊な立場ではあるが、昨今では珍しい風景だろう。
祥人師が語る集中している時の周囲の見え方は、F1ドライヴァーが300km/hで走っている時の風景と似ていて面白いと思った。片や極度に抑制された動作、片や高速走行中。どちらもある種の極限状態に置かれている事は確かである。

一切の主観を排除した編集方針に好感が持てる。佳作。見る価値あり。


こぎつね丸