観能雑感
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宝生会月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜
相変わらず不調。前日良く眠れず痛みもある。食欲も全くない。他にもいろいろ不具合が。後で解ったのだが処方された薬のひとつによる副作用によるものだったらしい。この薬に関しては副作用のみしか実感できなかった。余計具合が悪くなっただけ。服用を中止したら嘘のように楽になった。もともとボブ・サップ−130kgの私の体重がさらに2kg減。サップが1ポンド痩せるのと私が2kg痩せるのとでは事の重大性が異なる。因みに私はアーネスト・ホーストの方が遥かに好きである。均整の取れた美しい肉体。キックとパンチの絶妙なコンビネーションで相手を倒す。格闘技の美学を感じさせてくれる。 話が逸れたが気分の悪さのせいで出かける事を断念しかけるが、「あの方」が久々にシテを勤められるのだ。チケットを購入する前に番組に変更はないかと確認したくらいなのだ。行くしかあるまい。開場が自宅から一番近い能楽堂であり、全席指定なので大いに助かる。 開場に到着すると入り口の花に目が留る。和英師の初面のお祝いなのだろう。 所謂能評家と言われる方々を数名見かけるが、村上湛氏が正面席最前列のほぼ中央に座っているのを発見。氏は他の会でもこの位置に座っているのを見た事があるのだが、最前列が好きなのだろうか。彼の批評は賛否両論あると思うが個人的に興味深く読んでいるので、どのように評価するのか楽しみである。 尚、観た後時間を置かず書く事を旨としているが、体調不良により日数が開いてしまっている。最近こういう状況ばかりであるが、甘受するしかあるまい。記述に曖昧な点があるが諦めるしかない。
能 「金札」 シテ 近藤 乾之助 ワキ 則久 英志 ワキツレ 舘田 善博 他一名 名前不明 ツレは番組に記載なし アイ 高澤 祐介 笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 住駒 匡彦(幸) 大鼓 柿原 光博(高) 太鼓 松本 章(金)
本曲は観世流では半能になっている。ついでがあったので観世流袖本を購入したのだが、詞章まで半能になっているとは予想しておらず、某サイトで全詞章をダウンロード。バカである。 地頭は佐野萌師。乾之助師とは互いに「ケンちゃん、ハジメちゃん」と呼び合う仲らしい。どちらかがシテを務めるときは片方が地頭という機会が多い気がする。 後見によって一畳大と宮の作り物が運び入れられる。「羅生門」の時と同様。因みに振ってくる金札も羅生門で用いられる札と同じ将棋の駒の形をしている。 ワキは則久師。ついにツレではなくワキが付いたのかと感心。いわゆる家の子ではないので師匠がいかに面倒を見るかでその人の能楽師人生が決るらしいのだが、宝生閑師はこういう点においても目配りが行き届いている。さすがである。下居姿に締りがあって良い。美しく座れるかどうかはワキ方において重要である。 シテは風折烏帽子に濃香(こげ茶)の狩衣、白大口に直面。敢えて直面にしたのは昨年春の別会での不調以来、能のシテから遠ざかっている事を考慮してか。思えば昨年何度かシテを観る機会があったのだが全て代演。舞囃子を一度観たのみである。こうしてシテを勤められる姿を観る事が出来て喜ばしい。御髪がきれいに白いので、いかにも気品ある尉姿である。良い状態の時を知らないので何とも言えないが、声に張りが感じられない。力感には欠けるが小走りで橋掛りまで行く際、上体が微動だにしないのはさすが。 シテが作り物の中に入ってから、末社の神が登場。前シテと同様濃香でまとめた装束で統一感があり良い。声は悪くないと思うのだが、小舞は不思議と魅力がない。単なる時間稼ぎになってしまっている。 後シテはあの狭い作り物の中でよくぞと思うくらいの大変身を遂げていた。厚板法被肩上げに半切、黒垂に輪冠金札立。華やかである。ここでもやはり直面。後見が作り物の布を引く動作が無駄なく見事。眼目の矢を射る場面だが、矢を番える際手元が震えてやや不安定。いくら直面でも露骨に弓矢を見る事は出来ないので仕方がないと思われる。矢は至近距離に落ちた。敢えて飛ばさなかったように見えたのだが、どうなのだろう。すかさず後見が片付ける。舞働も滞りなく済んで弓を外し、目付柱に置いて扇に持ち替え終曲。神の威厳は感じられたものの、何とか無事に一曲終わらせた態か。本調子とは程遠いと思われる。もう少し早い時期に観たかったなぁというのが本音。
狂言 文相撲(和泉流) シテ 三宅 右近 アド 前田 晃一、高澤 祐介
家来が一人しかいない大名が相撲に負けて逆切れする話。自分の経済力を省みず家来を沢山抱えようとする大名を太郎冠者が諌める様が面白い。結局一人だけ増やす事になり、行き合った板東方の男を連れてくる。太郎冠者の前田師の肩衣は鮒か鯉の柄なのだが、板東者の高澤師の肩衣、蛍か何かなのだろうが、ゴキブリに見えてしょうがない。複雑。彼は相撲が得意との事で大名と闘って勝利。負けて悔しい大名は秘伝書を紐解き一度は勝利するが、三度目の闘いで再び敗北。伝書など何の役にも立たないと太郎冠者に八つ当りして投げ飛ばす。相撲で負けて口でも負けて、大名は散々であるが、とばっちりを受けた太郎冠者こそ哀れである。長めの割に演じ映えのしない曲だと思った。面白くなくはないのだが。
能 「胡蝶」 シテ 宝生 和英 ワキ 森 常好 アイ 三宅 右矩 笛 寺井 宏明(森) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 國川 純(高) 太鼓 観世 元伯(観)
現宗家の長男の和英師、初シテは昨年勤めているはずなので、今回が初面という事であろう。見所も彼の関係者と思われる人々で埋まる。しかしお調べが鳴っている時に名刺を配り出すのはどうかと思うのだが。 昨年無残な形で母を亡くし、父の行状も改まった様子が見られず、一人の少年として彼の置かれた立場は過酷であるが、舞台に立てばただの役者である。3年前に父と「石橋」を勤めていたのを映像で見た事があるが、子供という事を考慮してもあまり頂けなかった。その後の舞台評も厳しいもので、今回どのような姿を見せてくれるのか注目。ところで稽古は誰に付けてもらっているのだろう。 観世流の袖本を参考にと持参したのだが、こちらではワキの僧にツレもいるのに対し、前列に座っている方の謡本を垣間見たところ、宝生流では僧は一人だけらしい。こちらのほうが曲趣に合っているように思われる。 正先に梅の作り物が置かれる。紅梅と白梅が混じっていた。 笠を被った僧が登場。相変わらず美声の森師である。シテは幕内からの呼びかけ。声量はある。姿を現した和英師、最近の子にしてはかなり小柄。しかしこの先どうなるかはまだ解らない。足が小さめなので、鬘物を演じるには良いと思う。ハコビはおそるおそるというところか。かなりふっくらした若々しい小面を付けている。とりあえず決められた事をやっているという感じ。曲趣云々以前の模様。謡事体は思ったより悪くはない。ただ下居姿のだらしなさはどうであろう。下居は誰でも辛いものだろうが、若いのだからもっと締りがあって良いはずである。面もクモリ勝ちで見るも無残。 間語り、右矩師は右近師の息子さんであるが、まだ十代とは思えない程実に堂々とした語り。確か最近協会員になられたのではないか。先代宗家による嫌がらせとしか思えない状況に置かれながらも腐らず、時間をかけて、弟子を、息子を育ててこられたのだなぁと思う。 後シテ、胡蝶の天冠を付け、長絹大口姿で登場。鬘物の中でもっとも軽い本曲、舞うのは太鼓入り中ノ舞。念願かなって梅花に戯れつつ成仏するという幻想的な流れとなるのだが、何故か足拍子が鬘物とは思えない程無駄に力強い。これでは可憐な胡蝶ではなくモスラ来襲である。いかにも心配気な表情の地謡座の面々。ある意味シテ本人より緊張しているのかもしれない。地頭は三川泉師。 笛は寺井久八郎氏のご長男であるが、父よりは遥かに良い。元伯師の太鼓、今更ながら粒がそろっていて見事。基本的な技術なのだろうが、左右同じように打つのはやってみるとなかなか難しい。(私はスネアドラムの経験しかないが)。 特に大きな破れはなく終曲。まずはめでたいが、ここからいかに精進するかが肝要。後見座にいるはずの父の姿は見えず。英照師、中途半端な事はせず治療に専念されたほうがよいのではないか。しかし初面を父に見てもらえないのは何とも哀れである。
能 「藤戸」 シテ 寺井 良雄 ワキ 宝生 閑 ワキツレ 殿田 謙吉、舘田 善博 番組に記載なし アイ 三宅 右近 笛 寺井 義明(森) 小鼓 宮増 新一郎(観) 大鼓 亀井 忠雄(葛)
危惧していた通り、体力的に消耗しきっていたのでこの曲では途中ウトウト。地頭は今井泰男師。繊細な宝生流ならではの地に眠気を誘われてしまったが、非常に心地良かった。曲の内容は陰惨なのだが。 シテの寺井師は寺井久八郎師の弟さんらしい。笛は久八郎師の次男。兄の演奏の方が個人的には好きである。 前シテは息子を殺された母であり、意気揚揚と恩賞として与えられた領地にやってきたワキの佐々木盛綱を責める。「ああ音高し、何と何と」の部分は閑師ならではの演劇的要素が盛り込まれ、ワキの動揺が手に取るように伝わる。本曲、観世流で映像では見た事があるのだが、その時には見られなかった(と思う)母が床几に腰掛けたワキのすぐ近くまで立って詰めより、ワキが扇で遮るという、大きな動きがあった。息子と同じように自分も殺せという、庶民である母の出来得る限りの哀しい抵抗である。弔いの管弦講を催すからとなだめ、下人に母を送り届けるように命じる。下人はアイが勤め、狂言送り込みという本曲の眼目となるのだが、流儀、また家によってコトバがかなり異なる模様。庶民として母の気持ちも、また武人に使える身として戦の非常さもわきまえているという、両者の接点となる難しい役柄。右近師の語り、どちらかというと主人よりに感じられた。 後シテの面は二十余という本曲の専用面。漁師が二十余りで殺されたと詞章に出てくるところから来ているらしいとパンフレットの解説にあった。青白く、刺された上に海に投げ捨てられたという悲惨さを物語るような不気味さを湛えている。 地謡、特に大きく抑揚を付ける事もなく、淡々と殺された若い漁師の様を謡うのだが、それが逆に劇的効果を産むのであろう。浮かれ気分で領地入りした盛綱、明るい春の風情から一変して過去の罪業を見せつけられる、その想いとはどんなものなのだろうか。これこそ武門の習い、じっと受けとめるしかないのであろう。殺された漁師も称えられると思えこそすれ殺されるとは予想外だとワキを責めるが、弔いにより成仏する。こんなにあっさり成仏していいのか?と疑問を持つのも当然だが、ここは恨んでも詮方なき事、妙な言い方だが成仏した者勝ちである。一見勝者である盛綱こそ、修羅の道を歩んで行かねばならないのだから。 あくまでも私の印象であるが、この曲の地謡が一番好みだった。半覚醒状態になってしまったのも、きっとその為だ…という事にしておこう。しかし今井泰男師、お元気である。今の私の方が遥かにヘロヘロであろう。何だか申し訳ない。
帰り際、一人笑顔で観客を見送る和英師を見る。師の境遇を思うと、その笑顔が何だが痛々しかった。能楽師として、一人の少年として、彼の今後に幸多からん事を祈るのみである。
それにしても、私も今後どうなるのだろう。あの具合の悪さが薬の副作用だと思うと空しいというか、脱力する。それさえなければこの前の観世会も、今回の宝生会も、もう少しマシな状態で観る事が出来たのに…。能的に表現するなら「これも前世の定め」なのか…。
♪なにか〜ら〜なにま〜で〜まっく〜ら〜やみよ〜♪(若者はこの曲、知らないんだろうなぁ。そう言えば私もタイトルは知らない)。
こぎつね丸
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