観能雑感
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観世会定期能 観世能楽堂 AM11:00〜
最悪である。私の体調がである。かねてから持病に悩まされていたが、試みに訪れた病院の対応があまりに酷く、藁をも掴むような思いでネット検索して予約した病院の医師が、日本ではまだ数少ない専門医。専門医が一人もいない都道府県もあるとのこと。患者数は数十万とも言われる。またアメリカの統計によると深刻な症状の場合、QOLは透析を受けねばならない患者さん達よりも劣るという。私の場合とにかく痛みが酷い。前日も明け方痛みで目が覚めてから眠れなかった。ただでさえ私は朝が弱い。しかし飲まねばならない薬は眠気を誘う。開始時間が早い観世会定期能。開場は10:00〜。年間予約席を購入しないと指定席に座れないという観世会のシステム。不安を抱えながらも出かける。なんたって「あの方」がご出勤なのだ。すごく楽しみにしていたのだ。が…。予想どおりこちらの体調不備で楽しめなかった。記憶も記述も断片的。無念。 とても声の大きなCaucasian男性がいて、当日入手した「須磨源氏」の謡本を読もうとするのだが集中できない。アクセントからして英語が第一言語ではないようだが、舞台で狂言方が勤まりそうなほどの大音声。こちらとしては別にあなたがどこに行こうが何に興味を持とうがどうでもいいのだが、聞こえて来るものは仕方がない。ああ。 中正面に席を取り、不安に包まれながらもとにかくスタート。
能 「花月」 シテ 津田 和忠 ワキ 殿田 謙吉 アイ 山本 則孝 笛 内潟 慶三(森) 小鼓 宮増 純三(観) 大鼓 高野 彰(高)
囃子方の後見に流儀の異なる亀井広忠師が出てきてちょっと驚く。何故かは解らないが笑いを必死にこらえているように見えたのは気のせいだろう、きっと。 さて、本曲、離散した父子の感動の再会というよりは、春の清水寺における美少年の芸づくしに主眼が置かれているのだが、何というか、シテが美少年に見えないのだ。かっしき(漢字変換不可)の面をかけているのに何故?後を向くとかっしき鬘は不思議と艶めかしいなぁと思うのだが。全体的に動きが硬く、面使いが悪いのか、鶯を狙う場面でも1メートル以内で目の高さの位置に鶯がいるようにしか見えない。弓矢を使う日必然性なし。鞨鼓の舞もやはり華やぎがない。中年男性にが無理やり少年の格好をしているようにしか見えないのだ。能とは微妙な芸能なのだなぁと改めて思う。アイの則孝師が若いのでいっそ替わればいいのになどと不埒な事を考えてしまった。 装束は淡赤の厚板に濃青の水衣。淡朽葉の大口(やや記憶が曖昧)。あまり趣味がいいとは思えなかった。要するにグリーンにオレンジに黄色である。 最近宮増純三師の演奏が好きになってきた。ついに来る所まできてしまったのか、自分。
狂言 「佐渡狐」 シテ 山本 東次郎 アド 山本 則重、山本 則俊
和泉流では佐渡のお百姓がシテだったように思うのだが、大蔵流では奏者がシテなのだろうか。佐渡のお百姓は則俊師。 則重師、若いが安定した発声と見所に媚びない態度に好感が持てる。もっとも山本家に限ってそんな事はありえないが。髪を切って随分すっきりした印象。順調に成長している若手を見るのは気分がいい。 奏者に賄賂を渡すとろこは両者の微妙な心理がくっきりと描写されて「狂言は微妙な心理劇」という東次郎師の主張に大いに頷ける。人物に奥行きがある。つい惹き込まれてしまうのだ。 結局奏者の助けがあった時はなんとか乗り切ったものの、二人きりになり狐の鳴き声を尋ねられて嘘がばれてしまう。話としてはそれ程盛りあがらないと思うのだが、山本家の狂言はやはり面白いと思った。 斜め前に座っているかなり大柄な男性が身を乗り出すので視界がかなり遮られた。こういう事をする人の特徴として長時間(たとえば一曲通して)は続けない事である。本人も疲れるからだろう。背もたれに背を付けて観るのはマナーだ。乗り出すのはマナー違反である。
能 「隅田川」 シテ 片山 九郎右衛門 子方 観世 喜顕 ワキ 宝生 閑 ワキツレ 工藤 和哉(番組に記載なし) 笛 一噌 幸政(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛)
正に本日の主眼。シテもワキも囃子方も豪華。地謡も地頭に野村四郎師、他に坂井音重師等、強力メンバーである。 しかし、こちらの体調がとにかく悪い。痛みも強くなってくるわ、薬の為かぼーっとするわ、観能には甚だ不都合な状況。案の定悲惨な事になってしまった。 シテの出、何か強い意思に突き動かされて歩を進めざるをえないような、そんな緊迫感を漂わせる。それでいてどこか虚ろ。カケリで舞台を一周。私はカケリの一瞬エアポケットに落ちるような、そんな瞬間が非常に好きである。淡萌黄の鬘帯が美しい。 そして恐れていた事態。舟に乗ってから話の展開の上で最重要部である船頭の語りの記憶がないのだ。悔やんでも悔やみきれないが仕方がない。塚の前に連れて行かれて「掘り返してくれ」と訴える場面の動きはかなり抑制されたもの。念仏に合わせて塚の中から子供の声が聞こえる。子方を使う演出で観るのは今回初めてなのだが、ずっと作り物の中に入っているわけではなく、途中から入るのだと知った。最初から入っている場合もあるようだが、そちらのほうが舞台効果の点から考えると良いように思うのだが。広げた母の手をすり抜けて再び塚の中に入り、再度の念仏にもう一度姿を現すが、やはり母と触れ合う事無く塚の中へ消えていく。この時シテは地謡座の方を向き、シテ柱と目付柱の中間あたりに座りこんでしまうのだが、そこには哀しみとか絶望とかいうありきたりの感情を超越してしまった、重たい虚無感が漂っていた。感情が動くくらいならまだ救いはある。本当に強い精神的衝撃を受けると、心の行き場はどこにもなくなる。九郎右衛門師は、そんな人間の心理の有り様を見事に具現化していたように感じられた。きっとこの母親にはこの後何を尋ねても返答はなく、表情もなくなってしまっているのだろう。橋掛りを行く重い、虚ろな足取りにそんな事を思った。脇正面から一瞬拍手が出かかったが、他に便乗する人が出ず、囃子方の退場まで拍手が出なかった。 子方を出すか否かは創作当時からの論点であるが、個人的には出さないほうが良いように思う。姿を見せず声だけ聴かせる演出もあるそうだが、あえて子方を使うならばそちらの方が良さそうだ。何と言うか、子方の登場で一気に物語の世界から現実世界に引き戻されてしまうように感じたのだ。 それにしてももっと良い体調の時に観たかった。勿体無かった。残念至極。
仕舞 「難波」 浅見 重好 「放下僧」小歌 武田 宗和 「釆女」キリ 坂井 音重 「歌占」キリ 観世 清和
詳細は省略。正直あまりに気分が悪いため帰ろうかとも思ったのだが動く気力もなく、最後の能まで観ることにした。「放下僧」の小歌が宝生流に比べて意外に重いのに驚いた。
能 「須磨源氏」 シテ 高橋 弘 ワキ 村瀬 純 ワキツレ (村瀬 提(?) 他 1名 番組に記載なし) アイ 山本 泰太郎 笛 寺井 久八郎(森) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 國川 純(高) 太鼓 金春 國和(金)
というわけで、もうほとんど気力なし。休憩時間化してしまった。遠い曲の部類に入ると思うので楽しみだったのだが、残念。ああ、今回この言葉を連発している。 前シテの老人が現れたのは記憶にあるのだが、ふと気付くとますますスッキリ痩せた泰太郎師が間語りをしていた。あまり無理なダイエットは良くないのでは…とちょっと心配になったりする。ま、大きなお世話であろう。 後シテは光源氏その人。「青鈍の狩衣」と詞章にあるが、そのままの姿。面は今若か。初冠に黒垂がいかにも貴公子の風情。しかし「源氏供養」では作者の紫式部が成仏できずにさまよっているのに対し、こちらの光源氏は天上界の住人である。ああ、なんたる不公平。シテがどのような方なのか(それなりの経験と年齢に達してらっしゃるというのは解る)よく存じ上げないのだが、小気味の良い早舞だった。そしてあっさり消えて行く源氏。物語世界の住人が天上界にいるという設定、源氏物語の影響がいかに大きかったかの証なのだろう。
それにしても今回は観ているのが辛かった。機能障害で器質的疾患ではないが症状があるのは確かで非常に辛い事は事実なのだ。完全に回復するのは不可能なので、少しでも良い方向に向かえば良いのだが。せっかくの良い舞台も楽しめないのはかなり辛い。ますます落ち込む。そして社会復帰は何時? この文章も数日後、頭痛と寒気と共に書いている。ただの風邪ならいいのだが。関節も痛むしなぁ…。不安。とにかく今の内に書いておかないとますます記憶が曖昧になりそうで辛うじて記す。
「ああ、人生に涙あり」(水戸光門のOPテーマタイトル)。
こぎつね丸
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