観能雑感
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| 2002年12月07日(土) |
国立能楽堂企画公演 <特別研鑚公演> |
国立能楽堂企画公演 <特別研鑚公演> PM1:00〜
国立能楽堂が三役の養成を始めてから18年。元々は三役不足を解消するために始めたとの事だが最近は供給過剰気味らしい。今後は内容(玄人の数が少ない流儀の養成等)を考えていかなければならないのだろう。「家の子」が何かにつけて有利な世界。一般から志を持って研修生となり且つ玄人として活動している人達にはぜひ頑張ってもらいたい。国立能楽堂自らが率先してこのような大きな場を与える事は良い事であるし必要だと思う。
能 「三輪」(観世流) シテ 片山 九郎右衛門 ワキ *大日方 寛 アイ *加藤 元 笛 *竹市 学(藤) 小鼓 *森澤 勇司(清) 大鼓 亀井 忠雄(葛) 太鼓 *桜井 均(金)
*が国立研修生。この人達はそれぞれ活躍していると思う。特にワキの大日方師は成長目覚しく、この頃ではツレではなくワキを務める機会も増えてきた。名古屋の舞台が主な竹市師(とは言っても国立主催の公演には結構出ているようだ)、本日は二度目に聴く機会なので気になるところ。 ワキ僧の人物は特定されていない場合が多く、その意味ではこの玄賓僧都はワキ方にとって大役であると思われる。大日方師の声は朗々としてよく響く。聞き易い声である。首がやや後に反り気味に見えるところが惜しい。 次第に乗ってシテ登場。萌黄と黄の唐織着流し、柄は秋草。面は深井。片山師のギュッっと圧縮したような謡の声、私は大好きである。地取りの後に笛が入ったのは吹いている時間が一番長いという藤田流ならではなのか。透明感のある伸びやかな音色だが、若干軽いという気もする。竹市師、半年前に見た時よりは身体の揺れが少なくなったよう。 毎日樒と閼伽を供えにくる里女は、寒くなってきたからと僧に衣を一枚欲しいと頼むが、それを受取るために一歩一歩進む歩みがただならぬ質量を感じさせ、里女の本性を暗示するがごとくである。どこに住んでいるのかを問われ、杉の門を訪ねてくれと言い残し、シテは作り物の中に消える。 アイの加藤師。どうもコトバに勢いがない。山本家独特のあの言葉のリズムは、十分な息と供に発せられないと驚くほど力を失う。 ワキの言葉に引かれて作り物から後シテが登場。かすかに姿を現した時、面と長絹の白さが眩しく岩戸から出てきた天照大神を感じさせた。以下、クセで三輪の神と里女の神婚譚が語られるのだが、銕仙会が勤める地謡がその様を豊かに描き出し、改めて銕仙会の地はいいなぁと思う。 この神婚譚で三輪の神は男性でその本性は蛇であるとされるが、詞章では軽く触れる程度。三輪の神は女性と男性の両説があり、本曲は女性の姿で男装して舞う。里女に三輪の神が乗り移ったとも、後に明らかになるように天照大神と三輪の神が異身同体であるためとも言われるが、ひとつに決める必要はない。その全てを取りこむ事が能では可能なのだから。片山師のクセ舞からはこれは神だという気がした。神の威光を放ちつつも、どこか可愛らしさがあるのが師の持ち味だと思う。 神がなぜ僧に助けを求めるのか。中世の理解では、神が衆生を救う際、同じ苦しみをその身に受けるそうで、その苦しみは衆生のためであるという。本地垂迹説であるが、神は恐れ崇めるものではなく、身近な存在として感じられて悪くはない。 岩戸に隠れた天照大神のために八百万の神が舞ったのが神楽の始めであるとして、シテは神楽を舞う。神楽はゆったりと伸びやかなものだという印象があったが、今日のそれはもっと激しく、軽いと思った笛の音色が逆に神気の宿る深山の空気の如く清澄に響き、シテは神そのものに見えた。熱くて冷えたその音と、神聖な気を放つ舞手、このまま終わらないで欲しいと願うほど。勿論そんな事は叶わず、夜は空け、神は静に消えて行った。笛だけが若干突出した感は否めなかったのだが、許容範囲の内だろう。東京の囃子方とのバランスもあるのかもしれない。自分と同年代の竹市師がこのように素晴らしい舞台を勤めるのを観ると、感心すると同時に我が身の不甲斐無さについ思いを馳せてしまう。うーむ。頑張らなくては。それにしてもやはりオトコマエである。自分好みの容姿なだけなのだろうか。人気騒然の某狂言方より余程カッコイイと思うのだが。 地謡、終始漫然とせず、心地よく一番を楽しめた。惜しむらくはもう少しでシテが幕入りするというその瞬間に一際大きな拍手が自分の近くで起こった事。余韻がぶち壊しである。
狂言 「伯母ケ酒」(大蔵流) シテ *若松 隆 アド 大島 寛治
酒造りの上手な伯母の酒を飲ませてもらおうとする甥。頑なに拒否されて鬼に化けて脅すが酒に酔いつぶれて伯母に正体を見破られてしまう。 大島師、コトバに抑揚がなく平坦な印象。まるで壁の如く共演者の影響を受けない。打てば響かないとでも言えば良いか。一人で商売をしながら生活している伯母の警戒心の表出と考えれば納得はできる。高齢の故多少立ち居が苦しそうに見えるが、声は良く出ていた。 若松師、笑い方が山本則直師と似ていると思った。懸命さは伝わるが、コトバが流れてしまって印象として弱い。山本兄弟の見事なコトバの抑揚は、芸として成立させるのに長い時間と鍛錬が必要なのだろうと思った。
能 「雷電 替装束」(喜多流) シテ 内田 安信 ワキ *梅村 昌功 ワキツレ *則久 英志 *御厨 誠悟 アイ 山本 則孝 笛 *槻宅 聡(森) 北村 治(大) *高野 章(高) 太鼓 *田中 達(観)
「北野天神縁起」に依る菅原道真がシテの曲。道真というとどうしてもマンガ「陰明師」を連想してしまうのだが、今年は道真没後1100年とかで、「菅丞相」という曲が復曲された。 ワキの梅村師、声は大きいが謡にキレがない。カマエ、下居姿もなんとなく不安定。ワキツレとしては度々目にしているが、思ったよりも年齢が上だったと知って驚いた。 シテは常の形では童子の姿だそうだが、今回は面が中将、指貫狩衣姿。黒頭に冠という組み合わせは初めて見るので新鮮。面の上半分はほとんど隠れてしまっていて、表情が窺い知れないところが不気味さを醸し出す。比叡山延暦寺の座主に、「内裏に雷を落としに行くから出仕するな」とわざわざ言いに来るというのは、法力には勝てないという事を如実に表していて最初からなんだが哀れである。扇でシテ柱をトントンと叩き、訪問の合図を直接的に表現していたのが面白かった。僧が要請に応じないと分かると、供物の柘榴を食べて火を吹いて怒る。「陰明師」第1巻の百鬼夜行の場面を彷彿とさせる。 シテに続いてワキ、ワキツレも中入。一畳台が2台運ばれて舞台に縦に置かれる。これで内裏の殿舎を表す。後シテは黒い布を被って登場。暗雲とともにやって来た事の分かり易い表現。装束を替えてワキのみ登場。シテは小飛出、赤頭、半切、厚板。菅公は僧正がいる殿舎には雷を落とす事が出来ない。二つの一畳台を行き来してこれを表す。最終的に官位と神としての地位を与えられ、喜んで去って行く。 装束は派手だし、立ち回りはあるしで見た目華やかなのだが爽快感がなく、今後好んで観たいとは思わない。事の成り行きが見えてしまっている所為なのか。アイの語りは装束替えの時間稼ぎのようにしか思えなかった。どちらかというと遠い曲なのは、大掛かりなのにもかかわらず魅力に乏しいせいか。 笛の槻宅師、太鼓の田中師は今回初めて聴く。槻宅師は関西方面の舞台が中心なのだろうか。田中師、音に若干キレがなかったように思った。出演者の中で最年少なので、まだこれからというところだろうか。 観世流、喜多流と続けて観ると、地謡の違いが良く分かる。完全に好みの問題だが、私には観世流の方が好ましいようだ。
二日続けて異なる舞台で観ると、国立能楽堂の音響があまり良くない事に改めて気付く。明らかに残響が足りないと思う。国立能楽堂の建物自体は格調があって内部も綺麗なのだが、見所の勾配が緩く、また列の間隔が狭く、観やすいとは言い難いのがなんとも残念である。舞台もなぜか内ノリで採寸してしまって、若干狭いのだとか。なぜそんな基本的なミスが生じたのだろう。もったいない。
こぎつね丸
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