観能雑感
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| 2002年11月01日(金) |
清経 音取 と武悪を観る夕べ |
清経 音取 と武悪を観る夕べ PM6:00〜 杉並能楽堂
番組名そのままだが、主催の山本東次郎師と塩津師両名とも凝り性のため、未だに会の名前が決まらないのだとか。 会場に向かう地下鉄の中、向いの席に柿原崇志師とよく似た方が座っていらしゃる。今日の会にはご出勤ではないはずだし、別人だろうと思いながら同じ駅で下車。会場に着いてから渡されたパンフレットにかの御仁の名前があり(事前に配布されたチラシには別の方の名前が記載)、やはり本人だったのだと思う。ネクタイこそされていなかったが、サラリーマンが着るような地味なスーツをお召しだった。 会場は住宅街にあり、迷いそうだと思ったので駅前探索倶楽部で地図をダウンロードして携帯。しかし、かえってチラシに掲載されたシンプルな地図の方が解りやすかった。複雑…。 見所は狭い桟敷で、一般家庭で使用するような蛍光灯がぶら下がっていた。背面は壁ではなくガラスサッシなので、圧迫感はない。雛壇状の桟敷に白い座布団が引いてある。時代を感じさせる舞台で、同じ桟敷でも銕仙会のモダンな雰囲気とは対極。 蝋燭能なのだが、灯は使用せず、蝋燭を模したライトだった。狭い空間なので、灯を使用すると酸欠状態になることが予想され、仕方ないのだろう。見所から舞台の位置が近い。指定席を購入したので、久々の正面席。笛座の延長線上で、好位置。
狂言 「武悪」 シテ 山本 東次郎 アド 山本 泰太郎 (山本則直師の代演)、山本 則俊
プログラムでは太郎冠者に則俊師、武悪に則直師となっているが、実際は太郎冠者に泰太郎師、武悪に則俊師であった。 主の東次郎師、登場から機嫌が悪いのが解かる。後に控えた太郎冠者が主の呼びかけに対しすぐに答えないのが、本来答えるべき人間が他にいることを暗示する。 何かと理由を付けて出仕しない武悪に業を煮やし、成敗しろと命じられる太郎冠者、主とのやり取りに緊張感があり、深刻な展開となる。泰太郎師、主に真正面からぶつかっていき、切迫した状況がよく伝わる。もう少し緩急があっても良いかとも思うが、これはこれでよし。 武悪の家に赴き、言いくるめて魚を追っているところを後から切ろうとするが、果たせず。子供の頃から知っている間柄なので、太郎冠者は躊躇する。結局主には殺したと嘘を付く事に。ここまでは正にシリアスな展開。だからこそこの後の滑稽さが際立つのだ。 報告を受けて安堵した主は気晴らしに外出するが、鳥部山で太郎冠者はなぜか武悪を発見。遠くに行けと言っただろうと問い詰めると、最後に主に会っておきたいと答える。こうしてみると、武悪と主は本気で憎みあっているわけではなく、ちょっとした行き違いのため、このような状況に陥ってしまったのだという事が分かる。太郎冠者の案で幽霊に変装して主の前に現れる武悪、前半剛直そのものだった主の驚き様が、存外傷心者であることを示して面白い。東次郎師の剛と柔の対比が見事。この後は武悪が死後に主の父に会ったとして刀や扇をまきあげ、家が狭いからいっしょに死後の世界へ行こうと父上がおっしゃっていると主をおどかし、橋掛りを追いかけ終曲。この間のやり取りは前半の深刻さとは対照的にコミカルで、思わず笑いがこぼれる。武悪がシテ柱に寄りかかって寛ぐ姿が妙に可愛かった。 主人と武悪の間に挟まれた太郎冠者の苦悩と機転がこの曲の主軸。武悪の人物像は豪快かと思うとひどく未練がましく、あまり好きになれない。泰太郎師が難しい役を体当たりで演じ切った。これからますます期待できそう。
能 「清経 音取」 シテ 塩津 哲生 シテツレ 大島 輝久 ワキ 森 常好 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 北村 治(大) 大鼓 柿原 崇志(事前のチラシでは佃 良勝)
清経の家来であるワキの淡津三郎がツレの清経の妻のもとを訪れ、清経の死と遺髪を渡す。大島師、声も姿勢も良いのだけれど、戦いに赴いた夫を待つ若き妻という雰囲気が伝わってこない。役者本人の肉体をまず感じてしまう。何故だろう。死の知らせを聞き、討ち死にならともかくも、供に生きると約束した自分を置いて死ぬとは情けないと嘆く様も、不思議と心を打たない。 笛が前に進みでて、橋掛り方向を向いて座る。半幕が上げられるのは、シテの準備が終了した事を示すためか。幕上げは、後方にスペースがないのか、後に跳ね上げるのではなく、垂直に持ち上げていた。 高く低く、断続的な笛の音に合わせ、橋掛りを立ち止まりながら少しずつ歩むシテ。笛が行くべき場所を示しているかのよう。この音取は、鹿の雌雄が互いを恋しがって鳴く様を表していると、どこかで読んだ記憶があるが、官能的でさえある。仙幸師、体調不良が伝えられているが大丈夫なのだろうか。外に発散するというよりは、内省的な音色、余人に替えがたいものがある。ご自愛願いたい。 美しい演出ではあるが、一曲の構成を考えるとこの音取、どうなのだろう。常の形を観た事がないので何とも言えないが、やや冗漫な印象を受けた。 ここからはシテとツレの掛合いで、違いの主張はずっと平行線のままである。自分としては妻の心情より清経のそれを理解しやすいが、妻の立場を考えると責めずにはいられないというのも解かる。このでのやりとり、もっと心に響いてくるものがあるかと思ったが、なぜか平板な印象。塩津師、謡は若干弱いかとも思うが、しっかりした身体技能の持ち主である事が解かり、気になるところもないのだが、不思議と心が動かされない。神からも見放され、死を選ぶまでの仕方話も、修羅道の苦しみも、なぜか私には届かない。ツレがシテから死を選ばざるをえなかった状況を説明されて、「それでもやはり恨めしい」と言い放つところは胸を突かれた。 地謡は当初若干バラついたものの、後半はしっかりと物語を形作る。友枝師の手腕か。 それにしてもこの空虚さは何なのだろう。先週の喜多流自主公演でも同種のものを感じた。となりの観客(塩津師の素人弟子らしい)は泣いていたのだが。私の感受性はさしも鈍磨しているのか。それとも喜多流の主張と合い入れないのか。やはり演者側に何かが不足しているのか。
こぎつね丸
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