観能雑感
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国立能楽堂企画公演 PM6:30〜
国立主催の蝋燭能。入り口には電気で蝋燭の炎を模した足の長い燭台が置かれ、ちょっといつもと違う雰囲気。蝋燭能を観るのは初めてなので、どんなものなのか気になるところ。 本来ならば能のシテは近藤乾之助師の予定だったが、体調不良により三川泉師が代演。これは早くから明かになっていた。もう一人は後見の宝生英照師。同じく体調不良により代勤。前もっての発表ではなかったけれど、予想どおり。私生活が週刊誌の記事になってしまったが、まずはじっくり回復を図ってもらいたい。近藤師は3月以来不調が伝えられているので、心配である。まだまだ舞台に立って頂きたい方。ご快癒を心よりお祈り申し上げます。 蝋燭は橋掛りから舞台に沿って、かなり狭い間隔で配置されている。黒い足の台に白い覆いがかけられ、紋付姿の方々数名が火を灯していく。この方達、宝生流の人なのだろうか。消防法の関係上、電球で代用する蝋燭能もあるそうだが、ここでは本物の火を使用。照明はごく一部だけ残して全て消された。普段よりもはるかに暗い見所。席は中正面、ちょうど目付柱と切戸が重なる場所。厳しい。 それでははじまりはじまり…。
狂言 「金藤左衛門」(大蔵流) シテ 山本 東次郎 アド 山本 泰太郎
不運続きの山賊が、実家に帰る途中の若い女性を捕まえ、荷物を奪うが逆襲され、自分の持ち物まで奪われてしまう話。 黒い髯に頭巾、長刀を持った東次郎師登場。役柄に合わせて微妙に声音を変えているようで、太郎冠者とはまた違った雰囲気。堅固な身体に流麗な言葉、いつもながら安心して観ていられる。山賊として生計を立てるのは悪い事だと知ってはいるが、どうしようもないんだよと呟く、弱気な面を覗かせる。 そこに若い女性登場。久々に実家に帰るのだが、供の者の都合がつかず、一人旅。頭に荷物を載せている。泰太郎師、力みがとれて良い感じ。少し痩せてすっきりしたか?ただ、あまり女性だと感じられないのはどうした事だろう。 「役所に訴える」という娘に対し、山賊は「公的許可証がある」と言って、長刀で脅し、娘から荷物を奪う。開けて見ると、美しい小袖や付け髪(?)、紅など思いもよらず高価な品々に、このところ機嫌の悪かった妻も喜ぶだろうと喜ぶ山賊。いじましい。 一方娘は収まらず、嬉嬉として戦利品を調べている山賊の長刀を奪い、形成逆転。すぐに山賊の刀をよこせと言う。まず自分の荷物ではなく相手の武器を奪うところが賢い。それも最初鞘を娘の方に向けて渡そうとすると、逆にさせるのだ。現在に比べ山道を歩く事は危険を多く伴うものであり、このような知恵は至極当たり前に身に付いているものなのだろうか。それから、自分の荷物を返させ、何と山賊が着ている小袖までこちらによこせと言う。拒否すると長刀で脅す。娘の方が山賊家業が板に付いているよう。そのままこちらを見るなといいながら満足気に逃走。反対に山賊また妻に叱られると落ち込む。しかし、施しをすれば良い事があると諺にもあるではないかと、笑い飛ばして終曲。晴れやかというよりは、ちょっと無理して笑ってみた感じ。「なかなか上手くいかないけれど、なんとかなるさ」と自分に言い聞かせているよう。明日を信じて生きる逞しさ。 山本家は笑顔を作ったり、笑わせようという意図など全くないかのように、生真面目な演技をするが、それが返って可笑しさを生む。型と言葉の美しさを味わう事が出来て、狂言の中では一番好きな家である。 蝋燭の灯りにで照らされた舞台は、当然いつもより暗いのだが、装束の金糸、銀糸を用いた部分が浮き上がるようになって、灯りを受けると微かに輝く。常とは別の美しさがあった。昔の生活では、夜の衣服はこのように見えていたのだろうか。
能 「百万」(宝生流) シテ 三川 泉 子方 朝倉 大輔 ワキ 宝生 閑 アイ 山本 則直 笛 一噌 隆之(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛) 太鼓 金春 惣右衛門(金)
我が子と生き別れになった母親が、物狂いとなり、嵯峨野の清涼寺で子と再会する話。シテは登場からずっと舞どおし。悲愴感は少なく、曲舞をたっぷり見せるのが主眼。 次第に乗って子方、ワキの順に登場。子方の背が高く、ワキとほとんど変わらない…。稚児の扮装なので子供だという事は解るが、そろそろ子方卒業か?声は高いので、まだもったいないとは思うのだが。腕がだらりと力がないのがやや気になる。 僧が門前の者に何か面白い見世物はないかと尋ねると、百万という女物狂いがいる。自分が念仏を唱えると、もどかしがって出てくると言い、早速呼び出してもらう。ワキとアイの言葉の流れの違いがそれぞれ面白く、心地よい。則直師、強靭な肉体と安定感のある発声。身体に1本芯が通っているよう。全く無理なく声が頭の後方に響いてゆく。閑師の謡のゆらぎは蝋燭の炎のゆらめきと似ていると思った。 アイの念仏につられてシテ登場。風折烏帽子に薄紫の長絹、薄萌黄(?)の縫箔腰巻。手には狂い笹。面は曲見。ここから「車の段」、「笹の段」と呼ばれるシテと地謡のリズミカルな掛合いが続く。あまりの心地よさにちょっとうとうと。調子の良さとは裏腹に、詞章は物狂いの悲しさが溢れ、我が子に会わせてくれと跪く姿に心が痛む。 子供は僧に、あの物狂いは自分の母であるのでそれとなく尋ねてくれと頼む。僧は百万に出身地、物狂いをしている理由を尋ね、熱心に祈ればこの群集の中にいる我が子にきっと会ると言い、百万は法楽の舞を舞い始める。子供の所在は既に明らかなのに、すぐに教えてあげないのはやや不自然だが、物狂いの芸を見るのが主眼なので、こう展開するしかないのだろう。イロエが入るのだが、短い中にも子を捜し求める母親の不安定な心持ちが表われる。サシに続いて長い舞グセが始まるのだが、三川師、大きく動くわけでもなく、ハコビの歩幅は極々狭く、謡は抑制された静かなもの。だが母親の漣のように揺れ動く心情がにこちらに伝わってくる。目が離せない。カケリで橋掛りから群集を見渡す態で、「こんなに人が大勢いるのに、我が子はいない」と嘆く姿が痛々しい。全てが強烈な感情の動きではなく、微かに、しかし確実に伝わってくるのが不思議で、こういう表現の形態があるのかと気付かされる。もっと芝居気のある演者では、この曲の雰囲気は随分異なるのではないかと思った。 最後、見兼ねた僧が我が子に引き合わせ、二人は仲良く返って行き、終曲。 先に芸を見せるのが主な能だと書いたけれど、子を思う母親の心情は余す所なく表現されている。見る方としては、予め子供の所在が明らかになっているので、安心して舞をじっくり楽しめる構成になっている。地はしっとりと力強く、平板過ぎると感じる人もいるかもしれないが、シテの演技とよく調和していたと思う。囃子は大小太鼓と手練ぞろいで満足の出来。良い囃子とは音それのみを突出させないものなのだと、この頃思うようになった。爽やかな心地よさが残った一番。
こぎつね丸
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