観能雑感
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2002年10月21日(月) 和泉元彌騒動について

和泉元彌騒動について

本来舞台の感想を記すのが目的の日記だが、能楽に関して日頃思う事などにも時折触れてみたいと思う。あくまでも予定であるが。

さて、本日社団法人日本能楽協会の臨時総会が開催され、処分相当との意見が圧倒的多数を占め、続く理事会で「退会命令」とする事が決議された。「除名」相当との意見が多くの理事から出されたが、将来を完全に絶つ事は避けたいという理事長の判断で上記のような処分になったとのこと。これで一連の騒動が一応決着したわけであるが、元彌側は協会の決議を不服とし、また名誉毀損であるとして訴訟を起こすとみられている。懲りない人々である。
見所の側からすると、元彌が能楽界にとって重要な人物であるとはまったく思えない。彼がいなくてもなんの差し障りもない。私が能楽堂に足を運ぶようになった時は既に彼は能の会に出演しなくなっており、実際に姿を目にした事はないが、むしろそれは幸運だったと思っている。TVの映像を観た限り、彼の芸(と呼ぶのも憚られるが)はわざわざ観るに値せず、シテ方初め他の三役にも不釣合いであるように思う。芸力に差があり過ぎるのだ。
にもかかわらず、自分には既に習うものなどないという発言を繰り返す、彼の芸に対する認識の低さに呆れるばかりである。どんな世界の人でも、死ぬまで自分の技を追求し続けるものだ。完成などありえない。そうやって日々己を磨いているのである。彼の態度にはそういう真摯さが全く感じられない。芸よりも「宗家」というある種の権威(と当人は信じて疑わないようだ)にしがみつく事に汲々としている。
特に能楽に興味のない人からすると宗家=芸の頂点と考えがちだが、そうではない。生け花等と異なり、能楽界の宗家は流儀の纏め役であり、芸の評価はまた別の問題である。
この「宗家」に対する認識も元彌側と流儀内の他の職分との間に大きなズレがあるように思う。元彌側は宗家は横暴も許されるような絶対的な存在であり、他の職分は全て「弟子」(この場合ズバリ下僕という意味合いであろう)とするのに対し、他の職分側は宗家にそのような封建的主従関係を認めていない。狂言は家の単位でそれぞれ芸を受け継いで来たので、元彌側が主張するような「宗家」は必要ないのだ。
和泉流だけに留まらず、宗家の問題は他の流儀にも存在する。現に宗家と認められてはいるが、実質的な権限はほとんどない「宗家」も存在するのだ。元彌側が主張する「宗家」が、流儀にとって有益であるとは到底信じられない。
何がなんでも「宗家」の肩書きが欲しいならば、父親の死後然るべき手順を踏んでさえいれば、ここまでこじれなかったと思われる。死の直後に流儀内になんの報告もなく、一方的に「宗家継承」を宣言したために現在のような状況になったのだ。世間一般にはアピールできる「宗家」を名乗り、高額の出演料を得て、無理なスケジュールのため公演に支障をきたしている事が報道されると「マスコミの報道のせい」と開き直る。彼らが名を知られるようになったのは無知なマスコミを利用したからであり、そのマスコミの報道により実態が暴かれたのは当然の帰結だろう。
元彌側は協会は「宗家」問題で処分出来なくなったから公演の遅刻、ドタキャン問題にすり替えて処分しようとしていると主張していたが、協会は遅刻等の問題や協会に対する誹謗により協会員にふさわしくないと処分を下したのであって、宗家継承問題は一貫して流儀内の問題としている(その種の問題に係りたくないというのが本音であろう)。協会員を名乗るならば決められた定款は守ってしかるべきはすなのに、全く意に介さず、しかし協会員でい続けたい(何らかの後ろ盾が欲しい)という己の立場をわきまえない図々しさ。見苦しい限りである。
一見盛んなように見える能楽界も、様々な問題を抱えている。このような低次元の問題に拘わらなければならない関係者は不本意極まりないだろう。
見所にいる側としては、ただ良い舞台が観たいと思うのみで、一連の騒ぎは鬱陶しいだけだった。実際ワイドショーでは大きく取り上げられた時期もあったが、観る側としては彼らなど問題になるような存在ではないのだ。能楽界に和泉元彌は必要ない。それが不服ならば必要とされるよう態度を改め、芸に精進する姿勢を示さなければならないはずなのに、本人に全くその自覚がない。仮に今後勝訴するような事になっても、事態が好転するはずもないのだ。なぜこの程度の事が解らないのか。理解できるならば最初からこんな騒動など起こらなかっただろうけれど。


こぎつね丸