観能雑感
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| 2002年06月30日(日) |
八世観世銕之亟三回忌追善能 |
八世観世銕之亟三回忌追善能 観世能楽堂 PM1:30〜
観に行ったら時を置かずに書く事を旨としているのだが、すでに半年近く経ってしまった。この時期は体調が最悪で、チケットを無駄にしなかっただけでも良しとせねばならなかった。断片的な記述にならざるを得ないが、甘受するしかない。 八世銕之亟という人は、私には特別な存在である。とは言っても舞台を直に観て感銘を受けたとかいう訳ではない。数年前、能に興味を持つようになってから1年余り、TV放送や書籍でしかその世界に触れられなかった頃の事、この人の「葛城 大和舞」をTVで観て、自分なりの能の見方を掴んだような気がしたのだ。白い装束に身を包んで舞う姿から、私は確かに己を恥じて俯く女神の姿を感じ取る事ができた。「自分でイメージすること」が能を観る上でいかに大切かを、私はこの時初めて実感した。 その後、同じ空間を共有することのないまま彼は逝ってしまった。最後の舞台で地頭を勤めた日が私の誕生日であった事も、一方的ではあるが縁を感じている。晩年の数年間は体調不良の所為もあってか、周囲を心配させる舞台も多かったようだが、彼が能楽界に残した足跡の大きさは誰の目にも明らかであろう。自分も何らかの弔意を示したくて、この公演はぜひ観ておきたかった。
渋谷の観世能楽堂に行くのはこの日が初めて。渋谷は嫌いだし、駅から離れてはいるしで敬遠していたのだ。しばらく外で開場を待つ。半券を切られる際、銕仙会の公演ではかならず配られる小冊子「鉄仙」の特別版と八世銕之丞師の遺稿集「勁き花」が手渡される。「鉄仙」には生前所縁のあった方々の故人に寄せる想いが綴られており、改めて大きな存在であった事を認識する。遺稿集はおそらく故人の文章をまとめて読むことの出来る唯一のものであり、大変貴重であると思う。能に対する己の考えが素直に表現されていて、兄の故寿夫師のものとは異なる味わいのある、よい文章である。 見所は補助席もでて満員。評論家の先生方の姿も散見する。会の意味と出演者の豪華さを考えれば当然か。
連吟 「井筒」 銕仙会会員 玄人の会で連吟を聴く事は稀ではないだろうか。独吟は息子の九世銕之丞師と兄の榮夫師。会員全員の故人に捧げるという想いが伝わってきた。
仕舞 「生田敦盛」 観世 淳夫 故人には孫にあたる敦夫君。きびきびとして気持ちの良い舞振り。このまま伸びて行ってもらいたいと願わずにはいられない。 「野宮」 観世 榮夫 どうしても膝の具合が気になってしまう。今となっては特に印象なし。
舞囃子 「邯鄲」 近藤 乾之助 笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 宮増 新一郎(観) 大鼓 柿原 崇志(高) 太鼓 観世 元伯(観)
流儀を越えた故人の活動を示す一曲。追善能で他流からの参加は珍しいのではないだろうか。乾之助師と故人とは同世代で、同じ時代を供に歩んできたという意識が双方にあるのだろう。 春以降体調不良が伝えられていた乾之助師。4月にシテを観られる予定だったのだが代演となり、今回が初めて。邯鄲の夢の世界を確固として危うく表現していた。観世流の中でもドラマチックに盛り上げるのが特徴の銕仙会の地謡に対し、宝生流の抑えた謡が好対照をなして面白かった。
舞囃子 「三山」 片山 清司 観世 清和 笛 藤田 大五郎(噌) 小鼓 亀井 俊一(幸) 大鼓 安福 健雄(高) 故人が復曲した作品。後妻打ちが非常に生々しい。片山師が清和師の目を見て舞うのに対し、清和師は絶対に目をあわそうとしないのが印象的だった。
仕舞 「松虫」クセ 梅若 万三郎 「佛原」 片山 九郎右衛門 「融」 観世 善之 一番印象に残っているのが万三郎師。初めて観るというのもあるが、曲調に合った仄かな色香を漂わせていて新鮮だった。
一調 「小塩」 梅若 六郎 太鼓 金春 惣右衛門 不思議と印象に残っていない。各々手練なので、悪くなかった事は確かなのだが…。
狂言 「清水座頭」 座頭 野村 萬 瞽女 野村 万作
「萬斎襲名問題」以降共演する機会がなかった両者の久々の顔合わせ。故人と同世代で供に戦後の能楽界を切り開いてきた者同士の弔意の現れかもしれない。 両者ともシテ扱い。まず瞽女の万作師が登場。脇座についてから座頭の萬師登場。瞽女にぶつかってしまい相手を責めるのだが、供に盲目である事を知った時の萬師の笑い声が印象的だった。やるせない我が身の境遇に対する自嘲の念と、相手も同じ立場である事を知った安心感が複雑に絡み合っていた。打ち解けた二人は酒を勧め合い、唄を唄い合ったりして暫しの慰めを得る。瞽女が先に夢のお告げを得たとして立ち上がるのだが、夢のお告げという形を借りて座頭に対して「追いかけてきて」とメッセージを送っているように見えた。座頭もやはりお告げを得たと立ち上がり、異なる場所で二人は再会する。互いの杖が触れ合った瞬間、緊張も解けたように見えた。互いを伴侶としてともに歩みだす時の、座頭の「愛しい人」という呼びかけが温かく響いた。 終始緊張感が保たれた見ごたえのある舞台だった。事情はいろいろとあるのだろうが、この二人の共演の機会がないのは勿体無いと思う。せめて年に1回でも良いのだが、何とかならないのだろうか。 貴重な機会とあってか、片山清司師も見所で観ていた。
能 「江口」 シテ 観世 銕之丞 ツレ 谷本 健吾 長山 桂三 ワキ 宝生 閑 ワキツレ 宝生 欣哉 則久 英志 アイ 山本 東次郎 笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 鵜澤 速雄(大) 大鼓 亀井 忠雄(葛)
現銕之丞師が亡き父に捧げる一番。豪華な三役だが、地謡は今後の銕仙会を担う中堅どころが中心。 正直現銕之丞師の舞台を積極的に観ようとは思わないのだが、今回は気概に溢れた良い舞台であったと思う。途中コトバが違うところもあったが、然程気にならなかった。遊女が菩薩に替わるところはハネ扇で鮮やかに表現し、その場面は今も鮮やかに甦る。シテ同様地謡も緊張感を保ちつづけ、好印象。シテの退場の際、一ノ松で拍手が起こってしまったのが残念だった。仙幸師、具合が悪そうに見えたのだが、その後代演が続いた事を考えると、やはりそうだったのかと思う。 今後の銕仙会を考える上で良い材料になった一番。突出したスターを失い、一人一人がぞれぞれの立場で会を発展させて行かねばならないが、期待が持てると思う。見守りたい。 後で気付いたのだが、山本順之師が出演していない。何が理由があったのだろうか。 隣の席の女性の膝に置いたバックに頬杖をついて身を乗り出すという姿勢がどうしても気になってしまった。こちらの視界にかなり影響するので声をかけようと思うのだが、常にその姿勢のままでいるわけではなく、タイミングを掴めないまま終了してしまった。いつも思うのだが、背もたれに背をつけないで身を乗り出すという姿勢は周囲の迷惑になるという点でマナー違反である。そういう人の真後ろに座ってしまった場合はかなり辛い。まずは自分が迷惑になっていないかを考えながら行動しなければならないと思う。
後日現銕之丞師のインタヴューを読む。故人は病が進行し、病院のベッドに寝たきりなった時、とにかく何かやらねばとずっと謡っていたそうだ。その声が聞こえなくなって3時間後に息を引き取ったとの事。役者の一生はかくも凄絶であるのか。合掌。
こぎつね丸
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