観能雑感
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河村定期能東京公演 PM6:00〜 宝生能楽堂
正直、行くことすら危ぶまれた公演であった。その週の月曜日から腹痛が起こり、火曜日はなんとか出勤したものの、水曜日は休んで病院へ。薬をもらうが一向に改善されず、夕方再度来院。痛み止めの注射を打たれ、座薬までもらう。しかし痛みは治まらない。どうせ眠れないだろうと睡眠導入剤を飲み、目覚めるとやや落ち着いていた。来院して血液検査の結果を聞くが予想通り以上なし。IBS用の薬をもらう。痛いが乗換えなしで行ける宝生能楽堂なので、結局行く事にする。 開場前にNEW YORKER’S Caféで少しだけ食べる。その際窓から黒いジャケット姿の馬野師を発見。目が合った…と思う。どうでもいいが。 会場はPM5:20。すでのかなりの人数が並んでいる。雨が降っていたので時間より早く会場。河村家の面々がお出迎えをしいた。 今日は正面席をと思っていたが、やはり無理だった。全席自由で料金一律\8,000というのはチケットの捌き方として問題ありだと思うのだが。 東京公演とは行っても、関西方面からの客が目立つ。やはり素人弟子が多いようだ。となると、わざわざ東京で公演する意味がどこにあるのだろうか?主催者側の自己満足? とりあえず中正面脇よりに座る。補助席に物凄く座高の高い女性が座って視界が全くなくなったため、ちょっと移動。
本日の公演について 河村 晴久 主催者からの挨拶。曲目の紹介等。これがはっきり言って不要。見所はほとんど素人弟子なのだから、あらためて曲の説明など必要ないと思われる。それに正中あたりに斜めに座って話しているのだが、マイクも使わず特に大きな声を出しているわけでもないので、かなり聞こえ難い。高齢者には尚更だろう。約500人を収用できる能楽堂に適したやり方だとは思われない。そして徒に長かった。10分近くあったと思う。これも自己満足の発露か?
能 「隅田川」 シテ 河村 隆司 ワキ 宝生 欣哉 ワキツレ 大日方 寛 笛 杉 市和 小鼓 大倉 源次郎 大鼓 亀井 広忠 アイの出ない曲。ワキとシテとの掛合いを主に芝居が進行する。当然中入りなし。 源次郎師のには後見なし。やはり本当だったのだと改めて実感。哀しい。心なしか少しやつれられたように見える。 ワキ、ワキツレ登場。大日方師は最近良いが、やや詞が大仰で構えの重心が後よりに感じる。欣哉師、自然で余計な主張なし。ワキにはこれが大事だと思う。 シテ登場。カケリを舞うが、途中で囃子の調子が明かに変わって、不安定な精神状態を端的に表現する。船に乗せてもらうために船頭と都人ならではの問答を展開。乗船成功。旅人の話からこの辺りで行われる法要に話題が移る。ワキの語りで過去に何が起こったのかを観客とシテに知らせる。余計な感情を交えず、淡々と語る声が空間に満ちる。だからこそシテである母の驚愕と落胆に焦点が当たるのだろう。 身動きさえできなくなったシテを岸辺の塚の前にワキが連れて行く。地の「さりとては人々この土を、かえして今一度、この世の姿を母に見せさせ給えや」というところで地謡座を向き、周囲の人々に悲しみをぶつける。どうすることも出来ない無念さがほんの一瞬怒りとなって発露する瞬間。 塚の前でひれ伏すシテに、今となってはどうにもならない。せめて母の手で念仏してあげなさいと、ワキが鉦鼓を渡す。呆然自失状態の母を驚かせないためにか、そうっと、優しく持たせてあげるところが目に留る。念仏を始めた母の耳に、周囲の声に混じって無き子の声が聞こえるが、これは母親にしか聞こえない。今回子方を出さない演出なので、シテの緻密な演技が要求させる所だと思うが、不自然さは感じなかった。我が子を抱きしめようと一瞬すれ違う場面も同様。子方が出たほうが視覚的に解りやすいが、母の悲しみに焦点を当てるなら、この方がいいと思う。ただ、シテの力量が要求されるため、万人向けではないとは思う。 夜が明けると全てが幻で、そこにはただ草生した塚があるのみ、という悲劇のままで終了。その後この母親はどうなったのだろう。職業としての狂女から、本物の狂女になってしまうのだろうか。都に帰る気力もなく、隅田川に入水してしまうのだろうか。どちらにしてもさらなる悲劇しか予測できないが、中世ではそれほど珍しい話ではなかったのだろう。だからこそ人々の共感を得たのではないか。 シテ、悪くは無いが、もう少し若い時に観たかったと思う。地はほとんど一族で構成。山本順之師が地頭。馬野師も参加。後見を馬野師父が勤めており、良く似ていてなんだかおかしい。 笛の杉師、音は美しいがそれ以上のものを感じず。能管は音色が全てではないのだと思う。 この曲を務めた源氏郎師の心情を考えると、言葉にならない。
独吟 「勧進帳」 林喜右衛門 聞き流していたのだろうか、感想なし。
狂言 「魚説法」 シテ 野村 与十郎 アド 野村 萬 見習僧(?)が主人が留守の折り説法を頼まれ、一旦は断るが謝礼目当てに引き受ける。ありがたい仏教用語など知らないので魚の名前で誤魔化すが、結局見破られる。 萬師は構えに力がない。顎が前に出てしまっている。声にも若干張りがない。与十郎師はいつも通り淡々とこなす。妙に見所を意識して笑わせようとしないところがいい。
能 「恋重荷」 シテ 河村 禎二 ツレ 河村 晴通 ワキ 宝生 閑 アイ 野村 萬 笛 杉 市和 小鼓 曽和 正博 大鼓 河村 大 太鼓 前川 光長 どうも曲としての面白さを感じられないでいる。良い出来とはいえないTV放映を観ているせいか。 ワキとアイの問答から曲が始まる。廷臣に命じられてシテの山科の庄司を呼び出すアイの下男。そしてそのシテの出が異様に遅い…。高齢の所為だと思われる。謡も声量がなくほとんど聞き取れず。詞章を暗記している、または謡本等を見ている人でないと詞の意味が伝わらなかったのではないか。 中入り後、下男の説明を受けて廷臣が女御に報告。女御が弔いの言葉をかけてやる。こちらは聞き取る事ができ、ほっとする。後シテ登場。やはり出が遅い。ほとんど常座に立っての所作。もっと動きがあったような気がするのだが、シテの状態を考えてのことであろう。しかし、霊となった老人が女御を抑えつけているために動けないという曲の内容からは苦しい表現方法だと思う。悪霊から守り神となって去って行く変身も伝わりにくい。つまり曲の内容を完璧に理解している観客のみ相手にしていると考えるしかない。これをわざわざ東京で見せる意味はあるのだろうか。京都の自分の舞台で十分なのでは?こちらの体調が悪く、集中力を著しく欠いた事を差し引いても、散漫な舞台との印象は拭えない。 大鼓の河村師、写真の方が美形かも。受け口なのが気になる。声がかなりうるさい。今回京都の囃子方の演奏を楽しみにしていたが、わざわざ聴きに行く程のものでもないと判明。個人的な好みにもよると思うが。曲の始まりには広忠師、源次郎師とも後見をしていた。源次郎師の後見姿は初めて見る。終わりでは広忠師のみ座布団回収に登場。流儀が違っても手伝う、互助の精神か? 恒例の痛い観客。前列の男性、左右人が座っていないにも関わらず右に左に身体を動かして覗き込むように見る。体臭が気になる。回りの人がいなくなったのもそのせいか? 脇正面後方で堀上氏と西氏を発見。こういう方々はチケット代を個人で負担するのだろうか。 結論。今後とくに選んで見に行く事はないであろうと思われる。
こぎつね丸
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