観能雑感
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2002年06月14日(金) 銕仙会定期公演

銕仙会定期公演 PM6:00〜  宝生能楽堂

狂言 「清水」
シテ 太郎冠者 野村 萬
アド 野村 万禄

仕事を終えて会場に着いたのが約6:05。既に始まっているので狂言は観ずに終了を待つ。いつもの電車に乗る事が出来ればぎりぎり着席できたのかもしれないが、1本遅れてしまい、こういう結果に。ただ、この曲は既に二度観た事があるので、諦めがつく。
ロビーにスピーカーから舞台の声が流れている。それを聞く限り萬師ご出演のよう。体調を崩されていると聞いていたので、何はともあれ一安心。


能 「安宅」 勧進帳
シテ 浅井 文義
子方 観世 淳夫
ツレ 片山 清司、浅見 慈一、馬野 正基、鈴木 啓吾、長山 谷本 健吾、奥川 恒治、
北浪 貴裕、岡 久広
ワキ 殿田 謙吉
アイ(従者) 小笠原 匡
アイ(強力) 野村 与十郎
笛 竹市 学(藤)、 小鼓 宮増 新一郎(観)、 大鼓 亀井 広忠(葛)

狂言終了後10分の休憩。その間に着席。前列の女子大生らしき3名が煩い。おまけに勝手に人の席に座っていたらしく、後から来た人に確認されていた。自分の座る席も解らず、適当に座っているというその根性が非常に恐ろしい。隣の年配男性がお連れが不調のためこの席は空いているよと隣の席を譲っていたが、いつもこういういい人が周囲にいるとは限らない。自分の席に座られていた女性も、詞章を見せてあげていた。いい人はいるものである。
さて、すでに毎回恒例となった、はた迷惑な観客。今回は左隣の男性。貧乏ゆすりをし、間断なく咳払いを繰り返し、時折前に乗り出す。すぐ後の人は観ずらかった事であろう。私も鬱陶しかった。毎回毎回なぜすぐ近くにこういう人がいるのかと、非常に悲しくなってくる。
お調べが終わったあと、橋掛りに囃子方登場。初見の竹市学師、予想に反して非常に若い。中年だとばかり思っていたのでまずそれに驚く。さらに、歩くスピードが非常に遅い。まるで磁石の磁力に抵抗しているかのよう。姿勢もかなり前傾している。表情は渋面と言ってもいいくらい。笛座について吹き始めると、身体が非常によく動くことにまた驚く。音は大音量で、吹き鳴らしているという感じ。いずれにしても、これまで見た事、聴いた事のないタイプである。しかし…。美形だと思った。髪はかなり短く、丸刈りに近い。小柄で細身、顔のパーツが整っていて、端正。どこか修行僧のように禁欲的で、それゆえ醸し出される色香。などと考えるのは、私が壊れまくっているせいかもしれない。
次第に乗ってワキとアイの従者登場。殿田師、年恰好が富樫にピッタリ。謡も重すぎず、軽すぎず、関守の緊張感を出している。
次に橋掛りに義経一行が登場。壮観。脇正面に座っていたので、橋掛りを歩む一人一人のハコビが良く見える。本当に千差万別。基本動作のハコビでもこれだけ違うのかと思う。
全員が舞台に立って向き合い、道行を謡う。子方の義経がこちらを向いている。九世銕之丞師のお子さんだが、片山家の血が濃く出ているよう。隣の片山清司師にそっくりである。師は父上の九郎右衛門師にそっくりであった。淳夫君は落ち着いていて、安心して観ていられた。そろそろ高い声が出し難くなっているのかとも思った。
関所で山伏が厳しく詮議されているらしいと義経から聞かされ、弁慶は強力を偵察にやる。数名の山伏の首が晒されていたと報告を受け、義経に強力格好をさせ、なんとか関所を突破しようと各策する。血気にはやる仲間を落ち着かせる弁慶は、理知と膂力の両方を兼ね備えていなければならず、難しい役なのだろうと思う。仲間を率いて関に向かう際、辺りに目を配るその様が緊張感に溢れ、これからの難局を予想させるものになっていた。なにもない舞台における少ない所作で、数多くの事柄を表現する、そんな能の訴えかけの強さを感じるのは、こういう時である。
関に入り、さっそく見咎められ、開き直って最後の勤行を行うと、舞台に三角形に座って数珠を揉む様は壮観。囃子のノットもリズミカルで聴いていて心地よい。富樫はさらに勧進帳を読む事を要求。大きな見せ場の一つである。が、個人的にそれ程印象に強くはない。何故だろう。
通行許可が下り、足早に通り抜けようとする時、富樫の従者が義経に気付き、富樫はすぐに呼び止める。弁慶はおまえがノロノロしているからいけないのだと、杖で打ち据える。思っていたより激しくなかった。が、山伏対富樫の対決の場面はやはり緊張した。どちらも必死である。弁慶一行は何としても通りぬけたいと思い、富樫は任務を遂行せねばならない。向かって行こうとする仲間を抑えつつ、富樫と睨み合う弁慶。こちらからは富樫の表情しか解らないが、一人で大人数を相手にしなければならないワキの緊張感はただ事ではないであろう。
勢いで一行は関を通り、しばしの休息を取る。弁慶が義経に先ほどの非礼を詫び、義経は我が身の不運を嘆く。義経は子方が演じているので、哀れさが際立つ。大人だとこうはいかないであろう。
間もなく、富樫の従者が主が先ほどの非礼を詫びたいと対面を申し入に来る。ここでも弁慶は解かず、義経に目立たない所に行くように伝え、自らが応対する。歌舞伎では富樫が弁慶に心酔して、打ち解けた酒宴になるという、武士道的解釈がなされるらしいが、能ではあくまでも双方心を許していない。富樫としては当時社会的に立場の強かった山伏に対する非礼を詫びておきたいという思いがあり、やはりこの一行に対する疑念は晴れていないのである。弁慶は舞を所望され、そういう富樫の疑いを意識しつつ、関心を他にそらすという意味も含めて舞を舞う。しかしそれだけではなく、義経の身の安全を祈る、祈念の舞でもある。聡明な彼が事態を楽観視しているはずもなく、不安は尽きないであろう。だからこそ、祈らずにはいられない、そんな主君に対する想いのこもった、弁慶一世一代の舞なのだ。そんな事を考えながら浅見師の男舞を見ていると、なんだか目頭が熱くなった。そこにいるのは弁慶その人だった。カッコいいと思った。常座あたりで数珠をくるりと一回転させるなど、細かい技も入っていた。自分が能の舞踏的要素に強く惹かれていると思うのは、こんな時である。ただ、囃子が若い所為か、やや走り気味の気がした。シテの位取りと齟齬が、僅かであるが生じているように思った。
舞が終わり、また見咎められない内にと、一行は素早く陸奥に下って行く。橋掛りを高速で同山が退場して行くのが、またまた壮観。こんなに素早く走らないで動けるなんて!と驚く。シテが常座で留めて終了。爽やかな幕切れだった。
概して良い出来だったと思う。若手がツレで出ている所為か、地謡がベテランと中堅になり、安定していた。
橋掛りを退場する竹市氏を凝視してしまう。うーむ。やはり美形だと思う(しつこい)。
自分としては、こういう活劇よりも、やはり夢幻能の方が好ましく感じる。見せ場が多いとは思うが(見所の居眠り率も低かったと思う)。演劇的要素よりも、歌舞音曲的要素に魅力を感じている所為だろう。たまにはこういう曲もいいが。


こぎつね丸