on a wall
亜栗鼠



 主との出逢い 7/(主と出会う前の話)

彼の日記を読み始めて半年程経っただろうか。
初めてメッセンジャーでお話ししてからは2ヶ月経っていなかった。
主従関係を結んで、実際にお逢いするようになってからは半月程。
逢った回数は6回。
SMの経験など全く無かった私にとっては充分ハードな調教だったけれど、主に言わせれば、まだまだエスエムの「エ」の字にも入ってないという状態だった。

とても短い期間だけれど、主従関係を結んでから、主に対する信頼というものは今までの人生で誰に感じたものよりも強いものだった。

この短い期間の中で、主は、結婚しても構わないとまで言ってくださっていた。
けれど、私は「結婚」というものに対して不安を抱かずにはいられなかった。
まだ離婚もしていない。
結婚に対しても疲れきっていた。
私は、正直に告げた。
「結婚は怖い。」と。
まだMに目覚めたばかりで、これから自分がどう変わっていくのかも怖かったし、主の望む奴隷になれるのかも不安だった。
いつか言われた奴隷としての最終的な姿・・・
乳首・クリトリスにはピアッシング、身体のどこかに主のデザインしたタトゥーを刻み、主の命令には絶対服従、主の命令があれば何時間でも机にもソファーにもなる、縛り飾られて主の作品となり、オブジェとして飾られる。
それは主の愛情表現であり、そこまでした奴隷を捨てることは絶対に無いと。
私にそれが出来るのか・・・

結婚を考えてくださっている事に対しては素直に嬉しく思っていた。
けれど、それに応えることが出来ない申し訳なさ。
そして、これ以上主に迷惑をかけるワケにはいかないという思い。
結婚以前に、私は離婚する力が失せていた。
私は、主と出逢ったから離婚したかったワケではなく、ずっと離婚を考えてはいたけれど、それだけの体力と精神力が無かっただけ。
主は、その力を与えてくれようとしていた。

全く知り合いのいない土地に来て2年が過ぎようとしていた。
職場では距離を置いた付き合いをしていたので、友達と呼べる人は全くいなかった。
そんな私に、主は、「何かあったらいつでも連絡しておいで。迎えに行ってあげるから。」そう言ってくださっていた。
それはとても心強いものだった。

以前、私が浮気をしているんじゃないかと疑った夫は、探偵を雇ったのか自分で盗聴器でも仕掛けたのか、相手の男性のことを調べ、家まで行ったことがあった。
3ヶ月おきに繰り返す夫の転職で経済的に苦しく、私が水商売をしていた頃、結婚生活に疲れ、仕事の帰りに呑んでいると、連絡が取れないと夜中に私の友人の家に押しかけ、迷惑そうな態度と、その友人が私の居場所を知っていたこと、ドアを閉めた後に「なんか目がイッてたよ。」と呟いた友人の言葉にキレた夫は、その友人のことを「社会的に生きていけないようにしてやる。」と、その友人の家に私を連れて行こうとしていた途中で、信号無視で車を廃車にする程の事故を起こした。
それでも「謝らないと社会的に生きていけないようにしてやる。」と言い張っている夫に、友人も怯え、理不尽ではあったけれど謝った。
私は情けなくてたまらなかった。

初めて主と逢う直前、私は、主にその話をした。
もしも見つかった時、夫は何をするか分からないと。
主に迷惑がかかってしまうかもしれないと。
主は、「私には何も捨てるものは無い。社会的に生きていけないようにすると言われたら、私は逆にその人を社会的に生きていけないようにしますよ。」そう言われた。
その言葉で、私は安心した。
迷惑かけてしまっても良いんですね・・・大丈夫なんですね・・・?
だから私は主と逢った。
安心して委ねることが出来た。


主従関係を結び、主と逢ってから半月、
逢った回数は6回。
7回目に逢った時、私はボストンバックを持って家を出た。




−主と出会う前の話−


結婚していた5年間、何度も何度も離婚の話はしていた。
それは、結婚した時から始まっていた。
主と出逢う半年程前、本当に心を決めて、仕事も辞め、夫の両親や周囲の人にも話をした。
今まで何度も話をしてきて、夫婦だけでは話にならないことを思い知っていたからだ。
夫の両親も理解してくれた。
間に入って話してくれると。
私は、一ヶ月前から計画を立てていた。
けれど、それは結局失敗に終わった。
私は、二人では話にならないから同席して欲しかったのだ。
しかし、直前になって突然夫の父親は、遠く離れた場所から電話で夫に話をした。
「亜栗鼠は別れたいと言っているけど、どうなってるんだ?」と。
その後は、今までの展開と同じになった。
夫は私を問い詰める。
「別れたいのか?」
「まだそんな事を言ってるのか。」
「何が不満なんだ?」
「俺だって頑張ってるのに、我侭だ。」
「そんなことじゃ、俺と別れても誰とも上手くいかないぞ。」
「別れたいのか?」
「本気なのか?」
「そうなんだろ?」
「計画的だな。」
「ズルイ奴だな。」
この時夫は運転中、私が正直に別れたい事を告げるとどうなってしまうのか、今までの経験から充分承知していた。
だから、結局私は何も言えずに必死でなだめる。
しかし、夫は段々とキレ始める。
運転が怪しくなってくるのがハッキリ分かる。
以前、こんな精神状態で、廃車になる程の事故を起こしている。
恐ろしくてたまらない。
死が怖いわけではなかった。
いっそこのまま事故で死ねたらどんなに良いだろうと思っていた。
私が恐れていたのは、誰かを巻き込んでしまうこと、死ねなかった時のその後の生活。
なんとか家に辿り着いて、話を続ける。
改めて別れたいことを告げると、夫は暴れ始めた。
決して暴力は振るわない。
暴れるだけだ。
そして、私が服用していた精神安定剤や眠剤をバックに詰め、出て行こうとする。
私の顔に3センチ程まで顔を近づけてきて、「もうアンタには救えない。」そう呟いた。
血の気が引く。
私が殺すの・・・?
そして私の目の前で、夫は手元にあったタオルを首に巻き、両端を自分の手で引っ張って首を絞めて見せた。
少しバカバカしくなった。
いい加減にして・・・
心の中で呟く。
どっと疲労が襲う。
必死で薬を取り返そうとしたが、男の力に勝てるはずがなく、夫は家を飛び出した。
夫を追いながら夫の実家に電話をすると、夫の母親は「もう出ていかせてもいいから。」と言う。
ああ、いいんだ。
親の許可はもらった。
そして、実家に電話をしたことに怒った夫に携帯も奪われた。
夫は車に乗って、鍵をかけた。
私は車の前に立った。
数十分、そんな状態が続いた。
出ていかせても良いとは言われたものの、やっぱり怖かった。
ここで行かせたら、私が殺したことになるの?
そう思うと、なかなか動けなかった。
夫は、薬を飲み始めた。
車の中でぼ〜っとしている夫。
なんとか説得して車の鍵を開けさせたが、夫が降りないので助手席に乗り込む。
夫は車を走らせた。
「ぼ〜っとする。ぼ〜っとする。」
そう言いながら。
少し家の周辺を走り、歩いて帰れる距離で車を止め、「降りろ」と言われる。
暫く悩んだが、私ももう疲れた。
私は車を降りて、一人歩いて家に戻った。
夫は死ぬのかな・・・?
私が殺したのかな・・・?
私は一人の人間の人生を滅茶苦茶にしたのかな・・・?
ボー然と座り込んでいた。
家の電話が鳴る。
夫からだった。
「ぼーっとする・・・ぼーっとする・・・」
「危ないから帰っておいで。」
「ぼーっとする・・・ぼーっとする・・・」
「どこ行くつもり?」
「あの海が見たい・・・」
「どの海?」
「あの海が見たい・・・」
「そう・・・帰っておいでよ。」
「ぼーっとする・・・ぼーっとする・・・」
そして何十分無言が続いただろう?
私も、もう何も話す気力が無くなっていた。
電話が切れ、10分程すると夫は帰って来た。

足が立たなくなっている夫を寝かしつけ、私は夫の飲んだ薬を確認した。
夫の飲んだ薬は・・・
胃薬だった。

夕方から始まった話、もう外は明るくなりはじめていた。
この疲労感、脱力感、誰か解かってくれるだろうか?
結婚してから5年間、こんなことを何度も何度も繰り返してきた。
もう私の精神力は限界を超えていた。
精神的に弱い夫。
気持ちが解からないわけじゃない。
私も弱い。
だからダメなのだ。
私ではダメなのだ。
そう、私にはこの人を救うことは出来ないのだ。
こんな二人が一緒にいても、お互いがお互いを潰していくだけ。

目覚めると、夫はパソコンの前に座っていた。
そして、私にあるサイトを見せた。
自殺した少女の日記。
少女を自殺まで追い詰めた最大の原因は父親だったようだ。
そして、夫は私に言った。
「俺はこの父親と同じ事を亜栗鼠にしてたんだな。」
やっと気がついたか・・・
けれど、もう遅い。
もう戻れない。
私たちは離婚の話を進めた。
穏やかに話せるようになり、私も穏やかに何が苦痛だったのか本心を話した。
やっと夫も納得した。
けれど、最後にひとつだけお願いがあると。
「最後にもう一度だけセックスしたい。」
迷ったが、これで最後だと思えば・・・
と、最後のセックスをすることになった。
この情が、私の弱さだと気付きもせず。

セックスの後も、離婚を前提に話をしていた。
やっと離婚出来る。
そう思うと、また私の弱い優しさが出てしまっていた。
夫は、突然「アンタ、良い女だよな。離したくない。もう一度惚れさせてみせる。頑張るから、もう少し俺を見ててくれ。」そう言い出した。
「えっ・・・いや・・・それは・・・」
もう、有無を言わせない。
「やっぱり離婚はしない。」
夫のその言葉に、私はうなだれた。
そして、一緒に生活はしても、夫一人でも生活していける環境を作ること。
それは、私がいつ出て行っても一人で生きていける状態にすることを意味していた。
私の気持ちが戻らなければ、その時は離婚すること。
性欲処理は自分ですること。
それを条件に、また夫婦生活を続けることになった。
私の気持ちが戻らないことは明らかだったのに。
それでも、自分の気持ちを無視してしまえば、まだ楽に生活していけるのかもしれない。
そんなことを考えながら。

私の優しさは、弱さでしかなかった。

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2002年09月25日(水)
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