月のシズク
mamico



 ぶらっと父娘

外出しようかと支度していたところに電話が鳴った。
片手に荷物を持ったまま。受話器を掴む。

「やぁ。今、乃木坂。夕方の新幹線で帰る。時間があるなら出てこないか?」

ぼそぼそと喋るその声の主は、まぎれもなく私の父親で、その突飛な行動ぶりも
まさしく私の父親だった。聞くと、三日前から仕事で上京していたらしい。
なんでもっと早く連絡をくれないかなぁ、と嘆くと、「えへへ、時間が空いたから」
と悪びれもなく答える。私は午後の予定を変更して、東京駅へ向かう。

父は私と同業者で(私はまだまだひよっこですが)、年に二度ほど上京する。
数字や機械に弱い私には、彼のやっていることが未だちんぷんかんぷんの
ブラックボックス的神秘さを持っているが、同じ道を志した者として、何かと
深い理解を示してくれる。口数は少ないし、気の利いた文句も言えないけれど、
強い信念を持った人。私は父に誘われ、突然のデイトをするのが好きだ。

銀座をぶらぶら散歩し、喫茶店でお茶を飲み、皇居の周囲をまた歩く。
本当は東京国際フォーラムでやっている、「人体の不思議博」を見たかったのだが、
中庭をぐるっと取り囲む長蛇の列に、ふたりとも心底ひるみ、そのまま歩き通した。
丸ビル35Fの展望フロアにのぼり、東京湾やら国会議事堂やら東京タワーやらを
眺める。私は高いところが好きなので、春はふたりで六本木ヒルズにのぼった。

父は、東京に住んだことはないくせに、東京の地理を私より熟知していて、時々
とても驚かされる。地下鉄の乗り換えだって、どこの車両に乗れば乗り継ぎが良い
か知っていて、扉が開くと「こっち」と指さし、すたすた歩いて導いてくれる。
「なんでそんなに知っているの?」と訊くと、嬉しそうに鞄から、メトロ新聞やら
無料で配布されている地図なんかを取り出す。「暇なときに見ているんだよ」と。

夕方、東京駅のコーヒースタンドで最後の珈琲をのむ。
「今度来るときは、ちゃんと事前に連絡ちょうだいよ」と念を押す。
父はにたにたわらって「えへへへ」と答える。風の又三郎みたいな父。
改札に出てからも、何度も振り返って小さく手を振る父の背中は、覚えていた
背中より小さくて、私は彼が見えなくなるまで、ずっと後ろ姿を見送っていた。

2004年01月30日(金)
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