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■ 朝の電車で歌う女
いくつめかの駅で、その女は飛び込むように乗り込んできた。 どしん、と隣りの隣りにお尻を投げ出し、息をはずませている。 その勢いに驚いて、私も、隣りの女子高生も、彼女の方を見た。 白い頬が寒さでピンク色に燃え、黒いセルの眼鏡が鼻先までずり落ちていた。
そして
彼女は歌い始めた。 それは、朝の、人がたくさん詰め込まれた、不機嫌な電車の中では とても不釣り合いな行為だった。歌をうたう?ここで?なぜ?
彼女の歌には、言葉が抜け落ちていた。 ルルル、とも、ラララ、ともつかぬ、記号的音声が高みに向かって上昇し、 極みの手前でくるりと落下してくる。音の方向がまったく定まっていない。 そして驚いたことに、その流れのなかには歌とは何の脈絡も持たない、 狂気じみたカン高い嗤い声が不規則に挟み込まれた。魔女的な嗤い声。
駅に止まるたびに車両はどんどん込み合ってくる。 しかし、彼女の前はコンパスで描いたような半円形に空間ができていた。 正気を保とうとする人が、耳を塞ぎ、新聞に目を落とす。 隣りの女子高生は私の方に身をよじった。小刻みに震えていた。
わたしは、読んでいた本を閉じた。 彼女の歌声は私の集中力を拡散させる。気が散る、というのではない。 すいと気を惹き付ける力があるのだ。磁力のように。引力のように。
音楽的規則がめちゃくちゃに打ち破られて、嗤い声が恐怖を喚起するのに、 居心地のよさを感じてしまったのは、たぶん、彼女の放つ音が パーフェクト・ピッチにぴたりとはまっていたからだ。12個の音の定点。 剥き出しのワイルド感と均整のとれた繊細さ。 聞き慣れた、ひとの声からは遠く離れている。
彼女は明大前で電車を降りても、まだ歌っていた。 相変わらず、不規則に狂気な嗤いを挟みながら、不思議な歌を歌っていた。 どこへいくのだろう、と思いながら、階段を上り始めたとき、 わたしも彼女の歌を、ちいさな声でくちずさんでいることに気付いた。
2002年02月15日(金)
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