せんそうに対して自分ができる、 一世一代の、おどり
自分のおどりを映像で見るとします 吐きそうになります これは冗談抜きでそうなります 全力を賭している自分を見ると本気でそうなる おどりには果てがないために、過去の映像では、 どうみても(足りない)気持ちになってしまいます ところが、その時の自分に焦点を当てれば、、 (完全に足りている)
この世には過去から学べない《いま》がある
過去の映像を見れない理由は、見たくない理由は、 自分にとっての《いま》が 過去から得たものをおどることじゃないからです 集中するのはたったひとつ《いま》をつかむこと そのときのカラダを、空間を、感じとること 同じ空間にいる人たちから紡ぎ出すこと どんなに無様でも、たとえ失敗に見えようとも、 そんな《いま》をおどりきる そこからしか《いま》になれません
しかし、そんな《いま》を見れない人もいます どうしても見れない人もいるんです おどりは「わかる」「わからない」の ものじゃなかったりしますが、 一目見ただけで「この人は無理」ってあるでしょ? 好き嫌いでもかるく見れなくなります そんなものなんですよ、人の観点って。 それでも一つの答えがここにはあります。 もしも「こういうおどりは嫌いだ」と、 その人が、その人自身を知ることができれば、 その時から人は変わります☆ もちろん職業としての着地点とはいいませんが、 それを抜きにすればこれでわたしはO.K.です なにしろ(自分を知る)瞬間です。 お金を払ってはじめてわかることでもあります ただ、職業としては—
好き嫌いを超えたい
その信念でおどっています できるのは(BESTを尽くすこと)だけ。 もう、、これしか、ない。 ただこれが、この全力が通ったら— おどりは別の何かに昇華します
その人にとっての何かになるかどうかは 自分にとっては全力を尽くす以外にありません
ここにこそすべてを賭けておどっています
小さな祈りではあります それでも摩擦なくとおったら、 たとえ嫌いでも見れなくても、その先に
生きていていい
そう思ってもらえるおどりでいたい せんそうに対せるのはこれくらいです わたしたちはおどりを特別なものにします それでも、みんなにとっては、世界にとっては、 決して特別なものじゃありません それをどうにかして受けとってもらえないか 今はなきバレエの先生が教えてくれました 「おどりは好きなものを伝えたい勇気よ」 ほんとうに突き刺さります (自分もこんなふうになりたい)と 思ってもらえたら最高ですよね しかし、それでも、 たとえ その真逆に感じ取られたとしても、 いのちは いのちだけは避けられません 一生懸命とか、誠心誠意とか、 ことばにするとこうなってしまいますが、 自分にとって それが《おどり》です
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