断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2023年11月17日(金) 本番でしか見出せないもの

チェリストの宮田さんとのセッションを経て、
とつぜんに心がかるくなった

コンサートでのセッションは11月11日。
ジュスカ・グランペール本番は11月19日。
1週間前だった。
正直、無意識のプレッシャーがきていたと思う…
この無意識の〜というのに気付いたのは、、

 夢にジュスカ・グランペールが
 現れたことだった

あれは、夢の中での本番当日だった気がする。
そんな夢の当日に自分は追い詰められていた。
そしてジュスカの高井さん、
お会いしたこともない廣瀬さんの影に、、
こう言い迫られていた


「おどりはそれで本当にいいのか?」


起きた瞬間、、もう動けないくらいだった
本番でおどったときくらいに精神力が削がれている
夢にまで追い詰められるなんて何年ぶりだろう…
おそらくは、、自分の再復帰公演のとき以来か
夢に出るなんてどう考えても危機感しかない
なにしろ候補曲すべてが素晴らしくて
おどらなくても本当に泣けてしまう
1週間前でさえ
イメージをおどりにできる確信を得ていなかった


 ジュスカ・グランペールの曲は
 どう描いても即興だけでは太刀打ちできない


候補曲をいただいてすぐに思い至った。
どう聴いても完成度が高すぎて、
おどりを入れられる余白がなかなか見出せない。
おそらく、だが
ジュスカさんの曲に寄り添いすぎると
おどりは見てもらえないだろう
それほどに曲が素晴らしい
やっぱり初めて聴いた初期衝動がすべてだ
おどりと音楽は、絶対に向き合わなくちゃいけない
これだけの曲なのだ
この曲が出来上がるくらいの時間の密度は
自分には絶対の努力が必要だと感じた
この(努力)というのは練習とか技術とは異なる
音楽に向き合う、向き合えるだけの(自分)のこと

おどりになる、そのためには



宮田さんとのセッションで吹っ切れたものがあった
《なんとかなる自負》
どう見えているかは自分では確認できない
しかし、これまでの自分がおどりを肯定してくれる
そんな(なんとかなる自負)だった
文章にするとおそろしく投げやりにも
見えてしまうような文言かもしれないが、
どうにもこの言の葉しか思いつかない
この《なんとかなる自負》を確信したことは、
11月19日に向けて最大のギフトだった

きっとこれは突然の本番だったことが大きい
なにしろ19日に向けてまったく余裕がなかった
求められたものではなかったかもしれないが、
やはりおどりはそうやって
次につながっていくものだと感じる
ひとつひとつの本番は区切りがついていくけれど
おどり、おどりは、、

つながっている


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Taisuke [HOMEPAGE]