「ソノモノ」は自分がおどるもののタイトルです
その時 その場所で そこでしか成れない自分になること
それを わたしは《おどり》と呼んでいます。 つい「おどりをおどる」と言ってしまいますが、 どちらかというと、
(おどりになる)です
表現という言い方もありますが、 個人的には「表現」という言葉自体が 好きではありません。 否定したいわけでもないのですが、 表現をしたくておどってないんです だから、表現、と言ってしまうと 何だか決定的にベツモノになってしまう気がして。
わたしたちが行使していること、 それは誰かが名付けてしまったものです 自分の場合はダンス… ダンスですね それにしても「ダンス」って何なんでしょうねw ほんとうは誰も知らないんじゃないかなww だとすれば、踊り手がまずそれを見つけること そしてその日それを見てくれている人それぞれが 感じとってもらえること これはいつでも身に降りかかっています。 その時のダンスとは何なのか 何のためにおどるのか 闇雲におどりは踊れません おどりをおどるからにはそれを見つけたい ある意味では見つける行為そのものが (おどり)なのかもしれない、とも考えています コトバになる前のものだったり コトバにならないすべてだったり 時には意味があることを 時には意味じゃないことを うまくおどりに成れたらもう止まりませんw 止まれない、という方が正しい気もします。 見つかったら空気みたいになれる ただし、、見つからなかったら 結構な生き地獄です! なにしろ本番当日のド真ん中ですからね。。
さあそういうわけでソノモノです
わたしたちのように何かをしている人にとって (何か)が極めて重要です。 最近、こんなことを尋ねられました
「タイスケさんがおどっているのは 他のダンスとどう違うんですか?」
今回はこう答えました
「みんなに知られている(ダンス)というのは ダンス(が)踊りたい、と言われたりするもので 自分の場合は、、 ダンス(に)なる、ということでしょうか」
手段のためにはおどってないんですよね… ダンスを道具みたいに、とか自己実現の手段、 表現として、、まったく考えていないんです わたしはこの目で見てきました おどりのひと ダンスそのもののひとを 歌の人 絵の人 音楽の人 あの(感じ)は似通っています 現実を、現在をスッと飛び越えてしまうあの
みんなわかってしまいますよね? これって無意識に、 みんな(わかってしまう)やつですよね? 歌でも絵でも音楽でも、 自分(が)している人のことを 自分(を)している人のことを そして— そんな(自分)を飛び越えてしまっている人のこと わかってしまいます
もちろん(自分)の人にはチカラがあります (自分のチカラ)を持つ人は尋常じゃありません 周囲の人を飲み込む強烈なものです
自分としてはそうじゃないチカラを引き出したい ちっぽけではありますが 揺らがない何か それを空気に通して空間に委ねたい いつの間にかその人を通しているような
再復帰公演『The 3rd BIRTHDAY』の感想に 古い友人のものがありました
「ダンスというよりも、 おどりというよりも、 タイスケさんなのがよかった」
これは 震えるくらいの最大の賛辞です しかし、もしかしたら、それと同時に 自分をこえられなかった事実とも読めます 考えようによっては 一周して自分になって戻ってきたのかもしれない
あの時は、それにまだ気付いていなかった いいおどりを踊りたい、そう思っていた気がします もしかしたら、 もしかしたら、 自分がほんとうになりたいのは、、 名付けられていないものかもしれない ダンスじゃないかも おどりじゃないのかもしれません
《自分をこえた自分》なのかもしれませんね
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