断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2019年01月10日(木) 「エチカ」最終回

真理

真理について

いよいよ最終回です!
それにしても、、最後が《真理》とは―
つい前回、自力でそこにたどり着いたんだけど…
もしあの真理がここで否定されたら爆死しますw

それでも、この最終回は度肝です!!
3年前から残しているくらいの度肝なんです!
今あらためて見直しても
今あらためて見直すからこそ
こころ打つのも本当でした
長くなりますし哲学です
苦手な人には苦痛かもしれませんが
こういうのは学べる時でないと
勉強しないのも事実です
ぜひ見ていってください!



人はどのような道をたどって
真理に近づいていくのか
そこには近代の社会が選ばなかった、
スピノザの深い人間への洞察がありました
スピノザの哲学から、
ヒトが幸せに生きる道に迫ろう!!


先生は始めた
「これまで読んできた、(活動能力の増大)は
 どうやって確かめるの?と問われると、、
 難しいんですよ。。
 僕らは客観的に証拠を挙げて証明するとか、
 証明がないものを(漠然と信用しちゃいけない)
 と思っている、と感じますよね?
 でも、どうやらスピノザは
 正しさ、真理、というものを
 僕らの考え方とは違うカタチで
 認識している気がします。
 真理をどういうふうに理解するか―
 スピノザの場合は真理というよりは
 《真理を獲得する》ということ
 簡単に言えば、
 (何かを正確に認識する)ということです。
 物事を正確に認識する、とはどういうことなのか
 スピノザは考えた。
 その際に、私たちが常識だとしているものとは
 すこし違う考え方が見られます」


  真の観念を有する者は、同時に、
  自分が真の観念を有することを知り、
  かつ そのことの真理を疑うことができない。
  実に 光が光自身と闇とを顕すように
  真理は真理自身と虚偽との規範である。


「真の観念を持っている人は、
 それが(真だな)ってわかる、と
 言ってるわけですよ。
 物事を正確に認識すると、
 持っている認識そのものが
 その正しさをおしえてくれる感覚。
 スピノザは比喩的にも言っていて、

 《観念は画板の上に描かれた無言の絵ではない》

 観念をしっかり獲得すると、
 それが(正しいんですよ)と教えてくれるんだと
 言っています。
 真理というのは単に人から聞き覚えで
 なんとなく暗記してるだけじゃなくて、
 きちんと理解したときですよ?
 (これは確かだ、確実だぞ)と腑に落ちる、と
 スピノザは言おうとしてるんですよ。
 自分の中で(こういうことか!)と
 (感覚が得られるような)そういうものが
 真理の獲得であり、正確な認識を得る、
 ということなんですよ!

 真理は真理自身と虚偽との規範である、これは
 (真理が真理の基準だ)と言っています。
 これね、ちょっとした思考実験をするとすぐに
 わかります。
 何が真理であるか、基準があると便利ですよね?
 定規みたいなw
 これを使ってこれは真理だなこれは真理じゃない
 なんてわかったらすっごく便利。
 そういうのを発見して誰かが持ってきたとします
 当然それを持ってきた人に、僕は言います。
 (その基準が真なのを君は確かめたのか?)

 真理の基準を、真理の外側に設定しようとすると
 失敗するんですよ。 だから―

 《真理の基準を真理の外側に立てられない》

 これ、、意外とショッキングなことです。。
 こうなれば、

 《真理の基準は、真理の中になければならない》

 真理自身が真理の基準になるしかないんです!

スピノザの《真理》は正しさを証明できない

 あくまでも
 (私にとって真理がどう語りかけてくるのか)
 これをスピノザは考えていた

 デカルト的な(真理というのを公に共有しよう)
 という考え方と、
 スピノザ的な(真理と私自身の関係)を
 重視する考え方、
 ふたつの考え方が17世紀には
 並行してあったのではないか??
 後々の私たちが生きている近代という時代は
 基本的にデカルトの方を採用したわけです。
 でもそれだけではわからないし、
 実は使えるものが狭いんです」



わかる、って不思議な感覚ですよね。
自分にとってそれは(ダンス)です。
その人の喜びや悲しみが流れてくる、
嫌でも受け取ってしまう、そんな感覚です。
以前にも超難しい本がありました、、
ヨガスートラです☆
あれは、、ほんとうに難しいよw
なにしろ書かれてるほとんどを
わたしが(獲得していない)んだから。。
しかし、そんな中でも分かる部分もありました
ヨガスートラには、その(感覚)なるものが
余すことない(文章)になっているんです!!
感覚を文章にしてみたこと、ありますか?
やってみたことがある人なら…
おぞましいものを感じるはずですw
私たちが共有できないだろうそれを
言葉にしてきた人たちがこの世にはいた―
それも、、今の私たちが考えられる領域を、
軽く超越しています―
そうです、わたしたちは、、
ほとんどそんなものを考えずに生きています!
そんでもって、そんな(秘密)は
受け取れる人にしか伝えられなかった
そうじゃない人に伝えたりしようものなら
咎められていた時代です
(叡智)はそんな風に伝えられていた



「20世紀のフランス哲学者、ミシェル・フーコー
 が17世紀のことを論じているんですが、
 17世紀くらいに真理の捉え方が少し変わった、
 って書いているんです。
 これを彼は《デカルト的契機》と呼んでいます
 デカルト以前には真理というのは
 自分が変わったりレベルアップして初めて
 こういうことだったのか、って
 分かるものだった、と言ってるんですよね。
 ところがデカルト以降、
 真理って誰かにおしえてもらって
 (認識するだけの対象になってしまった)
 って言うんです。
 ところが17世紀にひとり例外がいる、
 それがスピノザだ、と。
 つまり、スピノザの場合は、
 何か、ものを認識するときには、
 自分の方も変わんなきゃいけない、
 誰でも教えてもらえば分かるようなものじゃない
 私たちも
 それを獲得してなきゃいけないわけです」


スピノザは人間は心も体も絶えず変化していくこと
に注目した。
成長し、大人になるにつれて、少しずつ世界を見る
目を養っていくこの変化にこそ真理への道がある、
とスピノザは考えた。

「変化すれば変化するほど
 受け取れるものの質や量も変わってくるから
 アクセスできる真理も変わってくる。
 例えば高校生の頃に読んだ本を
 大人になって読むと
 違うものが見えたりしますよね?
 自分自身が主体として変容することによって、
 初めて到達できる場所があって、
 初めて受け取れるようになるものがある、
 というのが、スピノザの真理感覚です」


真理は体得するもの

「例えば自転車とか乗れるようになった瞬間が
 ありますよね?
 それって、やっぱり何らかの真理を獲得してる
 わけですよね?
 で、それって人と公に共有できないですよね?
 つまり(こうやって乗るんですよ)と
 説明はいくらでもできますが、
 やっぱり自分で獲得しないと乗れないわけですよ。
 しかも不思議なのは
 多くの人が体験できるのに
 うまく口では説明できない!」

「スピノザはものを認識する、ってことは
 ものを認識するだけじゃなくって、
 (自分の認識する能力)も認識する、って
 言ってるんですよ。
 だから、
 やればやるほど自分のことがわかっていく。
 単に知識が増えることじゃない。
 他の人、他のものを知ることは
 世界を知ることは
 自分を知ることにつながる。
 ということは
 自分が自由になれるキッカケが増える
 能動的になるキッカケが増える
 つまり
 しあわせになるには
 物事を認識していくことを土台としている」



知ることは、とてもつらいことでもありますよね
現実に圧し潰されるのと同義でもありますから…
それでも
知っているからこそ
それを、その経験を使うことができるのが真理です
なにしろ、、知らなかったら何もできませんw
だとしたら、知ったことを生かすことが
生きることに 最大限 近い





つづく

終わらなかったーーー


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