断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2018年12月13日(木) 「人生論ノート」(4)

4回にわたりましたが、ラストになります!
実のところほとんど番組の文章化ですが
2021年な今現在も録画を消せません。
忘れてはいけない大事な何かを感じます。


 『人性論ノート』  三木清


 死について

 近頃 私は死というものを
 そんなに恐ろしく思わなくなった。
 年齢のせいであろう。
 以前はあんなに死の恐怖について考え
 また書いた私ではあるが。
 この数年の間に
 私は一度ならず近親の死に会った。
 そして私はどんなに苦しんでいる病人にも
 死の瞬間には
 平和が来ることを目撃した。


この文章を書いた三木清は当時41歳。
(41ッッ…すごくないかな!?)
(いいや戦時中だ。。量り知れない)
(その経験と体験がどれほどのものか)
2年前に妻を亡くし、
親族や友人など立て続けに見送っていた…
この一節には、死から目を背けず
死の恐怖に惑わされず生きたい、という
思いが込められたものだった


 死について考えることが
 無意味であるなどと私は
 云おうとしているのではない。
 死は《観念》である。


生きている間には自分の死を経験できない。
我々が死について考えるときには
《観念》として考える他ない。
しかし、、
人間はロジックで割り切れる存在じゃない!


「執着するものがあるから死に切れない
 ということは、
 執着するものがあるから死ねる
 ということである」


潔く死ぬことがうつくしいといわれた時代に
(悔いだらけでもいいんだ!)
といわれることは、もしかしたら
誰かの救いになるかもしれません。
この感じは間違いない。ヨガだな☆


「私に真に愛するものがあるなら
 そのことが私の永生を約束する」


これは、、キツイなかの絶対の真理です!!
この一節は、数年先の未来に読む、
究極の書籍『夜と霧』にも精通しています。
アウシュビッツ。 最愛の妻と引き離された中で
自分を、自分自身を保てたのは―
《妻が生きている》と信じていたからだ
光がない者は心が簡単に折れてしまうのだ
そう思ったら、、
人間というものはそんなものなんじゃないか
誰かと生活する、とは
そんなことなんじゃないだろうか


 妻の一周忌、追悼文集より

「やさしい言葉をかけたことも
 ほとんどなかったが
 今彼女に先立たれてみると
 私はやはり彼女を
 愛していたのだということを
 しみじみと感じるのである。
 彼女の存命中に彼女に対して
 誇り得るような仕事の
 できなかったことは遺憾である。
 私が何か立派な著述をすることを
 願って多くのものを犠牲にして
 顧みなかった彼女のために
 私は今後
 私に残された生涯において
 あたう限りの仕事をしたいものだ。
 そして、それを土産にして
 待たせたね、と云って
 彼女の後を追うことにしたいと思う」


昭和20年3月
逃亡犯を匿った嫌疑で逮捕
8月15日の敗戦後も釈放されることなく
9月26日 獄死  享年48歳

この事実は現実に(最近)のことです。
それを忘れてはいけないことを教えてくれました。
人間の尊厳が踏みにじられた時代を。
その尊厳のために亡くなっていった人がいることを


 もし私が彼等と再会することができる―
 これは私の最大の希望である―
 とすれば
 それは私の死においてのほか
 不可能であろう。


 過去は何よりもまず死せるものとして
 絶対的なものである。
 この絶対的なものは
 ただ絶対的な死であるか
 それとも絶対的な生命であるか。
 死せるものは
 今生きているもののように
 生長することもなければ
 老衰することもない。
 そこで死者の生命が信ぜられるならば、
 それは絶対的な生命でなければならぬ。
 この絶対的な生命は(真理)にほかならない。


昭和16年11月
雑誌における最後の連載は《希望について》でした


 希望について

 人生においては何事も偶然である。
 しかしまた人生においては何事も必然である。
 このような人生を我々は運命と称している。
 偶然のものが必然の
 必然のものが偶然の意味をもっている
 故に人生は運命なのである。
 希望は運命の如きものである。
 人生は運命であるように
 人生は希望である。
 運命的な存在である人間にとって
 生きていることは
 希望を持っていることである。



ひとりでとなえてみると
どうにもなみだがでてしまいます
とても
とてもうつくしいですよね
生きていることを
希望をもっていることだと
かんがえたことがなかったのです
世界がとても明快になった瞬間でした


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Taisuke [HOMEPAGE]