| 2018年11月21日(水) |
夢を見ていれば いつか叶う |
2018年11月20日 どうやらこの日 ドキュメンタリーを見たらしい
Fuzjko Hemming
この日のメモは、、以下だけだった―
夢を見ていれば いつか叶う
人生は何て短いんだろう
フジ子・ヘミング
先に断罪しておこう☆ フジコであってフジ子じゃなかった(爆) 急いでメモったのが原因だw
自分にとって感動がないかぎり メモが残ったためしはない
しかしどうだ この日の内容 イメージが 全然出てこない
ここから足がかりを得ようと努力が始まる 2020年の演奏ダイジェストに行き当たる この年、フジコ・ヘミング87歳。 一体何が、どこに感動をおぼえたのか それを突き止めたい あらためて突き止めなおしたい
「人生は何て短いんだろう」
映像を、演奏を見ると そのコメントとは裏腹にまったくの現役です 現役でありながら 《何て短いんだろう》と言い放っているのか この人にとっての時間は 時間とは どんな感覚なんだろうか
それにしても演奏が度肝にやさしい タッチが、、音が、、(まるい)!! (かど)をまったく感じませんッッ これは涙がでる でてしまう 間違いない。
この感じは、、《音になる》だ
これまで少なくない舞台を見てきました その体験、経験から導き出される実態 舞台人には大きくふたつに分けられる
オレオレ自己顕示自己実現タイプ
行為そのものになる芸術家タイプ
この二手には決定的な違いがあります 何者にもないエネルギーが満ち溢れているのは前者 決してオレオレを悪く言っているのではありません そのエネルギーが尋常じゃないからです 何よりも前に「俺を見ろ」があり わたし「が」演奏する・おどる、の「が」 世界の中心が演奏やおどりではなく「わたし」で わたしのために行為があるのだ 度を超えたものがないとこれで渡っていけない 悪い方面で言えば、 自分らしく、を誇張しすぎる人が多い 自分「が」の人は どうしても見せ方や音に色をつけたくなる それが ある種のいやらしさを現出させてしまう その色を《自分らしさ》だと肯定しかねない 色をつけすぎてキツいのが若さです でもその若さも その時にしかできないことかもしれません なにしろそのエネルギーは本物です だから良い悪いではおさまりません
さあ その直後に辻井伸行の演奏を聴きました 曲目は同じ「ラ・カンパネラ」リスト ロンドン ロイヤル アルバート・ホール 驚きました まったくもって超絶技巧路線だったのです いいや、そもそもこの曲自体が超絶技巧です それにしても 弾き方、音が、、まるでちがう
(ここまでちがうのか…)
一生懸命さにおいては見え方は 圧倒的に、辻井伸行です ホールが揺れるくらいの拍手でした たしかに凄い でもどうだ フジコ・ヘミングは―
これはもう聴いてもらえたらうれしい どちらも凄い なにしろ《中身》がまったくちがう!! もし もしもフジコ・ヘミングのタッチを 若い人間がやったらどうなるんだろうか 同じ演奏ができる人間もいるはずだ だけど、、 こんな情緒が、人生が、音に乗るのだろうか これこそが舞台永遠の謎です 真似と本物は、決定的にちがう ある意味で真似を本物にするのが技術、 プロの技とも言えます 観客に《本物だ》と思ってもらえるか 「その時・その空間」に関しては「あり」です 人それぞれ違う捉え方、感動の在り処 わたしたちはそれに対峙します わたしはフジコ・ヘミングの演奏を聴いて、 そこにたどり着くには 《その人》が不可欠なんじゃないか 本物の感動には、不可欠なんじゃないか そう感じました
その音色に《その人》を感じずにいられないんです
なんてこった ひとつの到達点に至ってしまっています 凄い この人は凄い きっと生で、会場で聴いたら 聴いてしまったら、、 涙が、止まらない気がします
音… 音が !!!
その人の過ごした時間を わたしたちは見ることができるのかもしれません
そう思える時点でもう技術を超えています
わたしは映像では足りないことを知っています これまで自分の目で空間を見てきたからです この体験を体感をもっともっと共有したい みんなと共有できたらなあ
そう思いながらおどっています
フジコ・ヘミングのモーツァルト 「ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467第2楽章」 でんきがはしりました からだがおどりだそうとして どうしてもうごきだしてしまいます
フジコ・ヘミングのピアノには譜面がありません もうさいしょから おと なのかもしれませんね
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