つづきです。
『いのちって何?』 相 大二郎
「いのち」は、自分のものではない! 小学校、中学校、高校あわせての 全校生徒100人弱。 個性豊かな生徒たちと 密にふれあう中から生まれた、 生きることについての「気づき」を、 世の中に問いかける。
日本一小さな私立学校長のメッセージ
一燈園が百年を迎えたと言うことは 奇跡ともいえよう。 その奇跡の秘密はやはり創立者 西田天香の 思想と業績にあったことを痛感する。 そしてその奇跡の秘密の内容は本文の中で 触れてゆきたいと思うが、そのポイントは 「大自然の神秘さ」に軸を置いた 「精神性」ではないかと私は受け止めている。
「一燈園とは何か」という質問に対して、 天香さんは常に 「一燈園は宗教ではない、生活そのものである」 と説明されていた。 またその生活については 「自然に適った生活である」と説明された。 この「自然に適った生活」という言葉に対して 私は幼い頃から大きな疑問と、 そしてより大きな魅力を感じていた。 この言葉はさらに次のように丁寧に説明される。
「自然に適った生活をすれば人は何ものをも 所有しなくとも許されて生かされる」
この本を開いて 【第一章 水がお湯になるとき】 第一章ですでに全開で気づかされます。 この《気づき》は、例えるならこうでしょうか
脱ぎ捨てられた靴をそっと揃える
感覚で例えるのはとても難しいのですが、 そういった《何でもないようなこと》が こころに染み入る瞬間そのものだと思います。 このことについては大好きな人にも言ってみました が、大して響かなかった(ように見えた) ひとのあたたかさのようなものは わたしたちには得難いものだと心底思っています そしてそれが分かち合えたら 分かち合える時がどんなに奇跡的なことか
一般的には大きなことを成し遂げたとき。 それも、ひとりでは叶えられないことを 成し遂げたときに分かち合える瞬間が来ます。 舞台を終えたときでしょうか。 ひとりでは叶えられない達成感をイメージするには いちばん分かりやすいかと思います。 しかし、そのあたたかさはいたるところにあります 決して特別なときだけじゃない!! だって、あたりまえすぎて気づかないレベルですw さあ《行願》について復習しておきましょう☆ 《行願》とは(トイレ掃除) 見知らぬ町の見知らぬ家を一軒一軒訪ねて回り、 トイレ掃除をさせていただく、というもの。
水がお湯になった (一燈園高校2年R.Y)
一月八日、年頭行願出発の日。 朝食を済ませて 行願式が終わるとすぐに出発した。 草履に慣れていない素足が冷たくなっていたが 一燈園の門で見送ってくれる人たちを見て、 頑張ろうという気が湧いてきて 冷たいことも気にならなくなっていった。 今度の行願で一番心に残っているのは 初日の戸別行願である。 最初は不安感や緊張感が頭の中を渦巻いて どうにかなりそうであった。 「さあやるぞっ」と思っても 一軒目に入るのに苦労した。 八軒目の靴屋さんでなんとかお願いをして させてもらうことになった。 そのときは本当にうれしくて、 バケツに水をもらい扉から拭き始めた。 冷たい水であったが汚れがひどいので 何度も雑巾をしぼってゆすぐうちに バケツの水も汚れてきた。 そばで見ていた家のご主人が 「水を変えてこよう」といって 汚れた水を換えてくださった。 雑巾をゆすごうとすると 水の代わりにお湯が入れてあった。 ご主人が気を遣ってくださったのか、 バケツの中にしばらく両手をつっこんでいると 手にしみ込んでくるお湯の温かさがご主人の 心の温かさのような気がしてうれしかった。 そして帰るときには 何度もお礼を言ってその家を出た。 戸別行願は他に二軒やらせてもらったが 最初にやったこの体験が一番心に残っている。
特別と思ってもいなかったことが特別になる瞬間 その感動は、、自分になる瞬間です わたしにも自分になった瞬間がありました それは《挨拶》です 忘れもしません これもその時にblogとして残しているはずですが あのとき。リアルあの時期のわたしは、、 自分自身をバカ笑いするくらいでないと 明日が手に入れられませんでした 笑い飛ばさないと生きようとできませんでした みんな笑ってくれるようにblogにしているのを、 無理やりに笑いにしようとしているのを、 自分で確認できるなんて、、 それほどに笑おうとしていたんだと思います
救命救急病棟からリハビリを始めるために転院。 はじめて自分の状態を理学療法士に計測されます。 分度器みたいなのとか定規みたいなので測られる。 どん底でした… まるで右腕が上がらなかった 「これからリハビリできる!」 やる気で満ちていたはずでしたが その現実は 機能を失ってしまった部位への絶望でした その絶望感はまったく文字じゃ足りません ホンモノのどん底でした なにしろ涙が尽きたくらいです あのときは夜を起きてたら 極端なことしか考られませんでした しかし、太陽の光があるうちは 不思議とそんな気は起こしません だから昼間に根こそぎ体力を奪いました 夜、寝るためです そんなときの、とある朝でした わたしは転べない要注意患者だったので 看護師に見張られていました 部屋を出て看護師に挨拶したとき、 挨拶を返されたとき とつぜん
自分がひとりじゃない、って気づいた
挨拶して挨拶を返されただけのことですが、 自分にとっては人生で初めての瞬間でした 挨拶する誰かがいてくれること そしてその人が挨拶を返してくれたこと その挨拶に心がこもっていたとか、 特別な何かがあったわけじゃありません 挨拶には気持ちがなくてもいいんです -それでも応えてくれる誰かがいる- 全身でそれを感じました たったそれだけであんな感動が襲うだなんて 挨拶って、、すごい
自分自身の中で水がお湯になった瞬間でした
わたしたちは気持ちを最優先しがちですが、 気持ちは決して重要なんかじゃなかった そのときに誰かがいること 応えてくれる人がいること それがどんなにしあわせなことか
あの瞬間を感じていなかったら今の自分はいません
今でこそ希望を失わないのは あの時のどん底があるからだと断言できます あの時からです 《楽勝っすね》
「水がお湯になる」…。 我々大人が、「生命が大事だ」「心が大事だ」と 何百回 口にしたところで、 「生命の大切さ」「心の大切さ」は 生徒たちの心に伝わるものではない。 おそらくその言葉はそよ風のように 彼らの頭の上を通り過ぎるだけではあるまいか。 なぜなら彼らは、「生命が大切だ」 「いじめはいけない」という言葉は、サウンド (響き)としては嫌というほど耳にしている、 つまり知識としてはすでに知っているからである では子供たちに「生命の大切さ」を実感させる にはどうすればよいのか。 「その言葉使わず」…。 私は、本当に真剣に「生命の大切さ」を子供たち に伝えようとするならば、 「生命は大切だ」というその言葉を使わない方が よいと思う。 子供たちが、彼ら自身の行動を通して 「自ら気づく」「自然に伝わる」方法を 大人は常に工夫することが必要である。 そのために大人には率先垂範という情熱と責任性 が要求される。 その要求に応えられないとき、大人は一番安易な 正しい「その言葉」を口にする。 水がお湯になるのはガスや電気ばかりではない 「水は心でもお湯になるのだ」という事実を 生徒から教えられた思いである。
我々人間は本来、生を授かると同時に、一人一人 すでに余命宣告を受けている存在であった。 改めて六ヶ月、六十年という数字には 表れないだけであって、人が「生きてゆく」と いうことは「死んでゆく」ということを 意味しているのであった。 従って、 自分の生命は大自然からの預かりものであり、 自分のものではない、ということを実感すれば、 今まで気づかなかったことに気づく世界空間が、 広がってきても不思議ではない。 そして大自然はすべての人間に、 そのような能力を与えてくれているように思う。 そしてそのことに気づくことこそ、 人間の生きがいではないかと思う。
|