たまたま偶然に、、、 いつも思うのですが《偶然》ってない気がします! ふと電源入れたTV、その番組に出会う。 自分にとって、 ほとんどと言っていいほど見ないTV。 本当におそろしいことですが、、 そんなときに限って踊り番組をやってたりします。 特にバレエとかw ピンポイントで。。 踊りをやっている以上は見ざるを得ません!! 昔は必ずチェックしていたんですが、 そういえば 今 全然しなくなりました。 文章にしていて自分でも疑問が湧きました。 どうしてしなくなったのかな?? いつからしなくなったのかな?? 思い返してみると、、決定的でした―
前十字靭帯断裂
おそらく自分自身に「今」できないことを 見るのが苦痛だったからです カラダや技術は違っても「自分だったら」が どうしてもかかってきます 自分だったら今のをどう踊るか 頭でイメージしたところでカラダは動きません どうしたって動かせない これは本当に苦しくてつらいことでした 思い出すだけでも呼吸が苦しくなります 文章では伝えきれません たとえば術後、病室TVで見た《体操競技》。。 その着地を見るだけで、 たったそれだけで悪寒が走りました
見れない
全身に拒絶反応が起きました これはリハビリでも同じでした 「やって」と指示されたことが、、 《まるで出来る気がしない》のです わたしたちのカラダは観察できるため、 自分自身としての認知が難しい。 特に 考えもせずに動かせるときには、 五体満足な時なんかには、、 分けて考えるなんてしていないからです。 不自由になったときに、はじめて、 《どうして出来ないのか》考えることになります これはダンスの練習でも同じことで、 出来る人はできてしまいます。 出来る人に《どうして》はありません。 練り上げる話はそのあとのものですが、 これは事実です☆
…最初から 話題が、、逸れてました!!
したかったのは、、 たまたまつけたらやってた番組の話です(爆) 画面に映ったのは舞台練習風景。 その舞台にはセットがほとんどありませんでした。 そこで長塚圭史が言った一言がこれです
「人物が背景を背負う」
その発言が胸に突き刺さりました― これだ!と思った セットのないステージには役者しかいません。 その舞台がどんなところなのか 朝なのか昼なのか夜なのか 晴れてるのか雨が降っているのか曇り空なのか それを示せるのは役者しか、、いないのです! 背景が見える役者。。 これをダンスの世界に置き換えると、、 《景色が見えるダンサー》です 演技とダンスは全く違いますが、舞台人として どこかで重なるところはあるはずです 特に「あたえられた」ものでないのなら、 景色が見えないなんてそれだけで資質不足。 景色のないものはダンスじゃなくてムーヴメント。 ダンスじゃないんですよ!! そういうわけで、役者も相当大変そうでした。 いや、大変じゃないことなんてひとつもない! あたえられたことをやればいいだけなら、 自他ともに感動なんてものは訪れません。 どこまで背景を背負えるか どこまで景色が見えるのか ここにこそ限界のない世界があります
誰かにやらされるものには感動は来ません 誰かにやらされるものに景色は見えません
誰かの舞台ならその誰かの感性をやれたらOK 振付家や演出家の感性をカタチにするお仕事です そこに自分の思いや主張は要りません これが一つの可能性を奪っているとも言えます 自分の思いや主張は洋舞の世界では全否定されがち ですが、逆を言えば《自分を踊る》ことこそが 忘れられている世界とも言えます。
見え方というのはおそろしいもので、 《自分を踊る》踊りは、 とかく好き嫌いが分かれます。 ですが、ほんとうにその人が踊りたいものを 見れる機会がもっとあっていいように思うのです だって景色はわたしたちの数だけあるのです もちろん見ていただく前提での話なので、 実のところ好き放題というわけにはいきません。 その人の器量や方向性その全てが明るみですw 誰かにあたえられないものだからこそ、 ホンモノの勇気が問われてしまいます。
好き嫌いで判断できないものがダンスの本懐です
好き嫌いを超えていくその意志が みんなに見える景色に繋がっている そんな気がするのです
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