| 2016年12月23日(金) |
おどる先になにがあるのか2 |
芸術のさきのこと うけとってもらったさきのこと
『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅 人との競争で生き抜くのではなく、 人を愛するから生きる
「あらゆる人に平等で美しい」
芸術は、あらゆる職業、あらゆる階級、 どの人にも平等に、「美しい」というのは どういうことか、ないがほんとうに「美しい」 のかを考えさせる存在だと思います。 そのため、私は自分の作品を介して、 あらゆるかたに会いました。 そのなかで、外国の王室のかたが、東京のアト リエに訪ねてくださったのは、おそらく、 このかたが最初で最後のこととなるでしょう。 人口約50万人で、私がご訪問を受けた1999年 は一人当たりの国民総所得が世界一位のルク センブルク大公国のジョゼフィーヌ・シャルロ ット大公妃(1927〜2005)です。 ジャン大公とともに、国賓として来日されてい た間、私のアトリエを訪ねたい、とご所望され ました。 ルクセンブルク大公妃は、ベルギーのレオポル ド三世国王のプリンセスとして生まれました。 少女のころ、父が運転する車の事故で、母の アストリッド王妃を亡くし、第二次世界大戦中 は、ナチス・ドイツの占領下、一家は監禁され 一時期、スイスに亡命しました。 亡命のときの様子を、スイスの国境まで裸足で 逃げて、一歩入ったそのとき、やっと助かった、 心底ほっとしました、と大公妃は述懐されて いました。 足は血まみれだったそうです。 王室のご身分で、ヒットラーに狙われたら、 戦時中は、生きた心地はしなかったことでしょ う。 戦後、のちのルクセンブルク大公となる ジャン大公世子とご結婚されたのですが、 まさしく二十世紀の歴史を背負われた方でした 私とは、置かれた境遇も、身分も違いますが、 同じ第二次世界大戦中、食べるものがなくて、 野生のタンポポを口にしたという逸話をもつ 大公妃と、地面にひょろひょろと生えている草 があれば、食べられるかしらと思って見ていた 私。 東と西の別々の地で、それぞれ異なる 境遇で死と隣り合わせになりながら生き抜き、 出会ったことを、私は感慨深く思いました。 大公妃は絵のたいへんお好きなかたでした。 私たちは、フランスの画家の話など、アートの 話に余念がありませんでした。 大公妃はもっ と話していたかったようでしたが、十数名の 身辺警護のもと、一分たりともスケジュールを 遅らせるわけにはいかず、定刻どおりにご出発 されました。 私も、名残惜しい思いでお別れ をいたしました。
芸術を愛する人の心は普遍的で、人と人に、 実り豊かな縁をもたらします。 この普遍性が、世界の平和の一助になることを いつか地球上から戦争と飢餓がなくなる日が 来ることを、私は願っています。
どんなことも。 人前にでれば、相手と正対すれば、 勇気がひつようです。 自分のかんがえや思いをうけとってもらえるか、 否定されやしないか、 勇気がなければいつも 怯えながら生きていなければなりません。 自分らしく生きることは堂々と生きることです。 生きることは ただ呼吸することじゃあない! 誰になにを言われても自分らしく生きる。 それを選べることが自分自身への近道。 選択できることが “自由” だからです。 わたしの復帰公演タイトルは『Choice』でした。 勇気をもって選択することで初めて “わたし” が “ダンス” がうまれます。 その選択をどう受けとられるか どんなにいっしょうけんめいおどっても 好きか嫌いかはわかれます ただ、芸術となればそれを突き抜けなくては! 好みだけではとても芸術とは呼べません。 わたしも最初は好みだけで判断していた気がします ですが、これまでの偉大な先人たちのおどりは 決してそんな好みの問題だけで帰してくれることは ありませんでした その踊りがどんなに醜くて醜悪でも、 どこかに避けてとおれない《何か》を感じました どんなに苦しいものでも目が離せない ここにこそ言葉にならない感動があるのだと わたしはそうおもうのです そうした《何か》がアートなのではないか その《何か》も定まったものではなく、 多種多様な《何か》なのです これを受けとれるようになるまでは いろんなものを見て感じなければたどりつけません なにしろ好みの問題ではないので、 自分だけの主観ではないものだからです。 こうした感性には “なにがほんとうに美しいのか” をひとつに決めつけないこと ひいては多種多様なものに目が向けられることに つながっているようにおもえます
そうかんがえたら、、 好き嫌いの観点でいけば、 【徹底的に嫌われること】というのは アートの条件かもしれません。 ただし、好き嫌いは超えていくことw
わたしたちはいつもいつでも、誰とでも そんなものを共有していけるのだと信じたい そのためにいっしょうけんめいというのは 双方にとってはなはだあたりまえのことです それをこれまで出会ったひとたちが、おどりが、 おしえてくれました わたしもそれにはじないダンスをおどっていきたい そうおもっています
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