断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2016年12月20日(火) 頼らずに、自分の目で見る

つづきです。

主催公演を打つたびに避けられない問題。
それは、公演タイトルです―
わたしが催すダンス公演は、
“感じてもらうこと” を主旨とします。
なので答えをタイトルにするというのは
極力避けたいのです。
むしろかんがえてもらえるようにしたい。
ダンスには無限の可能性があり、
どうとらえられるかうけとられるかというものに
わたしは真摯に向き合う者です。
“感じてもらえない” というのは
ダンサーの、出演者の、実力不足!
いのちの力を知る者として揺るがないリアルです


 『103歳になってわかったこと』 篠田桃紅
  過去を見る自分の目に変化が生まれる


 「頼らずに、自分の目で見る」

 アメリカ屈指の美術批評家、
 ニューヨーク・タイムズ紙の
 ジョン・キャナディ氏が、生前、
 私にこんなことを言いました。
 「絵には作品名がないほうがいい。
  作品名があると、見る側がそれに左右されて
  しまう。自分の目で判断しているので、
  僕は展覧会へ行っても、作品名は見ない」
 もちろん、キャナディ氏は、
 ギャラリーから作品の説明は一切、受けません。
 作家本人に会うこともしませんでした。
 説明を受けたら、自分の判断が鈍るかもしれない
 作家に会うと、情が移るかもしれない、
 と考えたからです。
 自らを律した厳しい目で作品を見て、批評をして
 いました。 それだから、世界的な美術批評家と
 して高い信頼を得ていたのでしょう。
 キャナディ氏に否定的なことを書かれたら、
 アーティストとしておしまいだと、
 美術関係者はおそれていました。
 このごろはずいぶん減りましたが、
 私も、展覧会などで、
 「これはなにを表している絵なのですか?」
 とよく聞かれたものでした。
 絵というものは、自分のなかに湧いてくる思いを
 目に見えるようにしたものなので、なにを、と
 いう質問には、私はいつも戸惑いました。
 絵に表れているものこそが、質問の「なにを」で
 そしてその「なにを」は見る人によって、
 どのように受け止めてもいいものだからです。
 人は、説明を頼りになにかを見ていると、
 永遠に説明を頼りに見るようになってしまいます
 たとえば、それが絵であれば、絵の鑑賞の幅を
 自ら狭めていることになります。
 参考にできることは、おおいに参考にしたほうが
 いいと思いますが、頼るのではなく、
 自分の目で見て、考える。
 キャナディ氏の言葉は、私たちの日常の
 生きる姿勢にも通じると思います。


わたし自身。いち芸術家として、
この文章には唸ってしましました。
《絵》は《ダンス》にかるく置き換わります。
質問のこたえもまったく上記のとおりです!
わたしはよく喩えをつかいます。
【ゴッホの絵】
ゴッホの絵だったらどれも、
すべての絵画は、いい絵なのでしょうか??
自分自身の目を養わなければ!!
自分の感性ではなく他人の評価に左右されないこと
それが《自分自身》への最短距離です。
自分はこう感じる、それを大事にしてほしいのです
わたしの公演タイトルも同じです。
しかし、公演のお誘いをする際、
タイトルがないというのはさすがにできません!
これにはいつも悩まされます。。
ひとの創造性にアクセスするというのは、
いつだって困難なのです。
絵とダンスの違いも明白です。
そのときどんなダンスが生まれるのか。
わたし自身にもわからない!!
こんなにスリルがある大冒険は他の誰にも出来ない
そう思うのです☆
大冒険というと聞こえはいいですが、
ここに責任をもつというのは恐怖そのものです。
恐怖を超えていく覚悟がなければ、
舞台には絶対に立てません。

これは、実は日常にあてはまってしまいます

自分自身がない人、見えない人というのは、
おおよそ他人の評価で動きます。
当たり障りのない生き方とも言えるかも。
永遠に誰かに迎合しながら生きていってください。
自分の中に湧き上がる思いが、衝動があるかぎり、
わたしたちの人生はゆたかさそのものです。
それをひとにつたえられるというのは
なんてすばらしいことでしょうか
わたしはきっとそういったもののために
おどっているのかもしれません


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Taisuke [HOMEPAGE]