断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2016年09月20日(火) できることから逃げない

◎最終回です◎

 『人生ノート』  美輪明宏

何を為すにもすべて勇気が問われます。
某バレエマンガにさえこんな台詞がありました―

愛子先生
「あなたは自信があって何かをする人間なんて
 この世にいると思っているの?
 だれだって 恐怖をのりこえて挑むんです」

左膝 前十字靭帯再建手術を経て
何ヶ月も病院で過ごし、
退院したときのことをおもいだしました

《生きてさえいればなんでもできる》

自分の足で歩くことができたとき、
理屈ではなく、全身でそう感じました
いまでも鮮明にそのときの感覚があります
自分に起きた大きな事故は2度目ですが、
経験はぜんぜん同じものじゃありません
役に立ったこともありましたが、
やはりその都度、
“今” の自分に挑まざるを得ませんでした
突き詰めれば、そのままわたしたちの毎日です
今の自分に挑むこと
挑まない選択もありはしますが、
毎日を輝かせようとすると、
気持ちを正さないわけにはいきません
なにしろ二度と戻ってこない “毎日” です
あのとき、なんとかしようとしてきた日々が
自分に気づかせてくれたことです
こう見えても後遺症があります
そして、目にはみえない機能障害もあります
現実的にできないことがたくさんある
そんなこころにそびえ立つのは―
《生きてさえいればなんでもできる》
超あべこべリアル☆ 笑笑
わたしにとって「できる」というのは挑戦です。
やってみるということに対して
わたしたちは徹底的にひらかれています。
できないことは増えましたが、
今はそれに挑まない選択肢はありません。
そのことがどれだけしあわせなことか
しっているからです

 《人にあげれば、パワーはもっと湧いてくる》

 「人間は卑しいもの、神は尊いものである」と
 はっきり切り離して考えているのがキリスト教
 です。 人間はあくまでも卑しいものである、
 おのれの罪を悔いなさい、神の許しを乞いなさい
 ということで、神と人間とを切り離しているわけ
 です。 それを釈迦がはじめて「神も人間も仏も
 同じですよ」といったわけです。
 「人間も神と同じなんだから、あなたも尊い神の
 一人である、自分の中の神の清らかな部分、仏の
 慈悲にあふれたやさしい愛の強く正しく明るい
 部分を増幅するように心がけなさい」といってる
 のが釈迦の教えです。
 どれをとるかは各自の自由ですけれども、切り離
 すのだったら、「どうせ私は卑しい人間だから」
 って思ってると、また悪いことをしてしまう。
 ところが「私は神である、仏である」と思ってい
 ると、仏が悪いことをしてはおかしいでしょう。
 神でありながらそういうことをしてはみっともな
 いし、そぐわないからいけない。 だから、
 自分で自分を律するようになるわけなのです。
 よくね、「握手してください、パワーを下さい」
 という人がいるでしょう? 一時的にパワーを
 もらっても、またパワーがなくなったら、また
 もらいにこなきゃいけない。
 一生もらい乞食でなきゃいけないでしょう?
 だから、「私はパワーはあげません」ときっぱり
 言います。 そして、なぜ 人に
 「パワーをあげましょう」と言わないのですか?
 と言います。
 人からパワーをもらうのではなくて、人にパワー
 をあげようと思うと、泉のようにだんだん湧いて
 くるものなんです。
 そうすると自信がついてくる。
 人にあげなきゃいけないと思うと。 だから、
 人にどうすればパワーをあげられるだろう?と
 思えばいいんですよ。
 そうすると、パワーは自然と泉のようにふつふつ
 と湧いて出てくるものです。
 そうすると、自前でパワーを調達できるから、
 よそにもらい歩く必要がなくなります。
 それを「パワーを下さい、下さい」って、
 あちこち拝みたおして歩いてる人がいるけれども
 そういう人は一生貧しいまんまで終わるのです。

できることを丁寧に、できるだけ丁寧にしていけば
自ずと他者に影響を パワーをあたえます。
それが “どんなに小さなことでも” です。
病院にいたとき、それを学びました。
患者仲間のなんとかして “生きよう” とする姿を
今でもわすれられません。
できることがあたりまえじゃなくなったとき、
確実に自分を見失います。
気持ちが整うまでにどれだけ時間がかかったか
しれません。
ですが、整いさえすればあとは明快です。
《できることをするしかない》
できないものはできないからです。
カラダが見た目だけでもわるいところが見えなく
なったとき、とつぜんやってくる “恥ずかしさ”
みんなが《できる》ことが《できない》!!
これに遭遇したとき、物凄い矛盾を感じました―
「恥ずかしい」って、、何??
これはあたりまえを土台にした感情です。
みんなと同じことができないから。
わたしは「恥ずかしい」を克服したはずでした!
ところが、興味深いことにみんなと変わらない
スタンスがとれるまでにリハビリをして追いついて
きたとき、突然フツーになってたことに気づいた

たぶん何かをやめたり、あきらめたりするのは
「恥ずかしさ」のせいです

恥ずかしさをとっぱらったら圧倒的自由ッッ
恥ずかしさって、実は「できる」「できない」から
かんがえたらぜんっぜん前段階。
がんばってもない。 臆病者なだけだ!!
わたしは手術をして小学生でもできることがかるく
できなくなりました。
子どもたちの前ではいい大人でありたい、そんな
気持ちがあるのもたしかですが、すくなくとも
踊りたい気持ちは子どもには負けません。
わたしには “上手” ができません。
だからこそ “立ち向かっていく” ことには全てを
賭しています。
上手とか下手ではない、生きること。

どんなことを思われても、どこかであんな人いた、
と思い出してもらえるような、それくらいの
「できること」を全力でやっています


 < 過去  INDEX  未来 >


Taisuke [HOMEPAGE]