ことばというのは甚だ不思議ですよね。 《誰かにつたえたい》そういった力を感じます。 そもそもことばとはそうやってできていったのでは ないでしょうか。 いろんなことを《共有するために》うまれてきたの ではないでしょうか。 スートラを読むと、、つたえようとすること自体が オーバーワークな気がしますけどねw “つたえようとしなくともつたわる” そんな得体の知れない何かを信じているからこそ わたしは踊っています☆ なにしろダンスはことばにする前のカラダです! しかし、ことばにする できるというのもまた ほんとうにすごいことですよね。 わたし自身、このblogで挑戦を続けていますが 毎回も毎回 迷走しています(爆) 適確なことば、文章にするにはまず。 ことばを知ってなくちゃいけません 汗 この感じ、なんだかダンスにするのと似てるッッ 意識的にダンスにするのと似てるんですッッ ◎そういうわけで今日もがんばろう◎ 本日は、気になった一文です☆
「どんな人間的、超人的努力も、 無限の意識の輝きを明かすことはできない。 その努力をやめてはじめて、 探している存在がまさに自分の中に 永遠にあることに気づく。 つかむことも閉じ込めることもできず、 追うことをまったくやめた時、 特別の計らいでやってくるものなのである」
これはなんと、そのまま《ダンスがやってくる》に 置き換えることができます!! 正直、度肝抜かれました。。 ただ 自分の場合 それに気づけたのは、 追って、追って、追いまくったからです(爆)
実は たいせつなのはここかもしれません
追いまくること。 ここを精一杯やってはじめてわかることです。 もうこれ以上できないくらいやってわかること。 だから、スートラのような偉大な聖典でも 単に《読んだ》だけで実感はむずかしいとおもうの です。 答えだけを知ってる人のことばでは 説得力がないのと同じでしょうかw ことばというだけでもそのことば自体に 何かが乗っているのだとおもいます。 ◎わたしはそれをダンスと呼んでいる者です◎ 何かが、景色が、その人が、わかるような、 うしろにある経験からくるゆたかなもの。 付け焼き刃ではそんなもの感じられません! 人生で重ねてきた年月は たいへんなゆたかさだとおもいます それをその人がどんな思いでつむいできたのか 見えるものは見えるのです できることならそれがあたたかいもので あったらなあ、とおもっています
ちなみに、“知っているだけ” の人の特徴は 《どこか高圧的》です!! ふしぎですがおおまかに言ってこれです☆
「縛られていると思っているのは、 ただ無知だからである」
この《無知》っていうのも勉強すればいい、 ってものじゃないです。たぶんw こんなの勉強しなくても解き放てるひとは 解き放ててますからねw (※解き放つと切り捨てるは別物) ただ、“なんとなく” にしないためにスートラは 今日まで引き継がれてきたのだとおもいます。 無知を減らすことができたら なにもかもゆたかさが湧き上がってきます どんな人のことばにも耳を傾けられるはずですし、 どんな人のことばにも動じないものもそなわって くるのだとおもいます
輝きがどんな人の前にも明るみとなる、 ダンスはその一助になれると信じています
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