断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2016年07月23日(土) ダンスのかがやき

ことばというのは甚だ不思議ですよね。
《誰かにつたえたい》そういった力を感じます。
そもそもことばとはそうやってできていったのでは
ないでしょうか。
いろんなことを《共有するために》うまれてきたの
ではないでしょうか。
スートラを読むと、、つたえようとすること自体が
オーバーワークな気がしますけどねw
“つたえようとしなくともつたわる”
そんな得体の知れない何かを信じているからこそ
わたしは踊っています☆
なにしろダンスはことばにする前のカラダです!
しかし、ことばにする できるというのもまた
ほんとうにすごいことですよね。
わたし自身、このblogで挑戦を続けていますが
毎回も毎回 迷走しています(爆)
適確なことば、文章にするにはまず。
ことばを知ってなくちゃいけません 汗
この感じ、なんだかダンスにするのと似てるッッ
意識的にダンスにするのと似てるんですッッ
◎そういうわけで今日もがんばろう◎
本日は、気になった一文です☆

「どんな人間的、超人的努力も、
 無限の意識の輝きを明かすことはできない。
 その努力をやめてはじめて、
 探している存在がまさに自分の中に
 永遠にあることに気づく。
 つかむことも閉じ込めることもできず、
 追うことをまったくやめた時、
 特別の計らいでやってくるものなのである」

これはなんと、そのまま《ダンスがやってくる》に
置き換えることができます!!
正直、度肝抜かれました。。
ただ 自分の場合 それに気づけたのは、
追って、追って、追いまくったからです(爆)

実は たいせつなのはここかもしれません

追いまくること。
ここを精一杯やってはじめてわかることです。
もうこれ以上できないくらいやってわかること。
だから、スートラのような偉大な聖典でも
単に《読んだ》だけで実感はむずかしいとおもうの
です。
答えだけを知ってる人のことばでは
説得力がないのと同じでしょうかw
ことばというだけでもそのことば自体に
何かが乗っているのだとおもいます。
◎わたしはそれをダンスと呼んでいる者です◎
何かが、景色が、その人が、わかるような、
うしろにある経験からくるゆたかなもの。
付け焼き刃ではそんなもの感じられません!
人生で重ねてきた年月は
たいへんなゆたかさだとおもいます
それをその人がどんな思いでつむいできたのか
見えるものは見えるのです
できることならそれがあたたかいもので
あったらなあ、とおもっています

ちなみに、“知っているだけ” の人の特徴は
《どこか高圧的》です!!
ふしぎですがおおまかに言ってこれです☆


「縛られていると思っているのは、
 ただ無知だからである」

この《無知》っていうのも勉強すればいい、
ってものじゃないです。たぶんw
こんなの勉強しなくても解き放てるひとは
解き放ててますからねw
(※解き放つと切り捨てるは別物)
ただ、“なんとなく” にしないためにスートラは
今日まで引き継がれてきたのだとおもいます。
無知を減らすことができたら
なにもかもゆたかさが湧き上がってきます
どんな人のことばにも耳を傾けられるはずですし、
どんな人のことばにも動じないものもそなわって
くるのだとおもいます

輝きがどんな人の前にも明るみとなる、
ダンスはその一助になれると信じています


 < 過去  INDEX  未来 >


Taisuke [HOMEPAGE]