「解脱のための手段は、永続的な識別知である」
はい。スートラですw もうね、この本には自分の注意書きが、、 めちゃっくちゃあるんですよ☆ 終わりが、、みえない(爆) ですが はじまりには終わりがあります。 あるはずなんですッッ 涙涙 す、すこしでも前へ― すすもう!
パタンジャリ(もとはヘビのひと)は煩悩の形態 煩悩の原因、健全な状態について述べた後、 治療法を説明している。 それは、永遠で純粋で自由で本質的なものと 一時的で不純で縛られた非本質的なものとを 区別する《不変の能力》である―
ここでは映画のスクリーンに比喩られていた。
意識と自己をすべての像が映し出される スクリーンにおきかえてみよう。 スクリーン上の画像は絶え間なく変わるが、 スクリーン自体はそのまま何も変わっていない。 同様に、自己は永続的なものだが、 心、体、そして映し出される対象は、 すべて一時的なものである。 過去の経験を通して形成される潜在印象は、 体や心、そして対象に固く結びつけられて 離れないため、汚れたものと言われる。 私たちは映画を見れば、登場人物の行動によって 潜在印象がかたちづけられていく。 そうして登場人物にイメージがつけられていく。 その対象はすべて、無知、自意識、欲望、苦痛、 恐怖に基づく潜在印象で汚されているのだ。 映画の最後に純粋で汚れていないのは、 印象の投影されたスクリーンだけである。 同じように自己は純粋で、現象は汚れたものだ。
わたしはうなりました。 わたしはダンスで心の研究を静かにしてきました。 この本に気づかされたものはかなり大きいです。 以前に課してもらった書籍にはこんな文章が ありました―
「体が痛くて、苦しくても、 心をそれらに引きずらせることはない」
心と体、一心同体ともいえるものとおもって いましたが、これは思考の転換でした! わたし自身 苦しいことの連続でした。 身動きもとれず寝たきりだった時期。 手術してまるで気持ちが上がらなかった日々。 体が動かないことは極めて心に影響していました
今でさえそうです
ですが、こんなわたしでも明るくいられます。 それは周りにたすけてくれる人がいたからです。 たすけてくれる人に向き合えばいつだって明るく いられました。 何よりも、たすけてくれている人に対して、 嫌な気持ちにさせる理由が何ひとつない☆ どうせなら、生きているなら、 みんな明るくいられたらどれだけ素晴らしいか 確かに体は痛いです。 痛いものは痛い! だけど、最後にはポジティヴでいられます!!
◎だって生きているんだものね◎
そういうわけで心1stで踊ってきたわたしです。 ところがその心自体が汚れているとわかったときが ありました。 それは振付をしている最中におきました。 どうにも一番最初に感じたことがいつのまにか こうしたほうが見栄えがいい、とか これをこうすれば技術が示せる、とか 妙なヤツに気づいたときです! わたしはかたちにならないものをダンスにしてます しているはずなのにカタチにしようとしている 自分に気づいて、 「これはおかしい」ということになります ちなみにこのことは即興で踊っていても出現して しまうときがあります。 そのときは総じて《力を示さなければならない》 《ダンスを対価にする》そんな責任感から どうしたって逃れられないときでした。 ここに陥ると自分のダンスには決して届きません まったく自由になれないのです 心をからっぽにしなくちゃダンスにならない そう感じたのです この “しなければならない” というものに、 おおよそわたしたちは縛られているのでしょう 一番たいせつにしなければならないものを すっかりわすれてしまうほどです 自分にとって “汚れている” というのは これにあたりました ただ、汚れているという表現をしていますが、 決してわるいことばかりではないようにおもいます ここはひとつ置いておかなければいけません。 その印象が大事なときだってあるはずです! ここにこそ、その人のうつわが問われるように おもうのです。 なにしろ、わたしたちが生きている《社会》という やつはほとんど《しなければならない》です。 あたえられた仕事をまっとうすること。 そこにこそ想像力は欠如していく気がするのです。 たいへんむずかしいことですが、 いつだってここにぶつかっていくのがダンスだと、 Artだと感じるのです。 《しなければならない》よりもたいせつなものが、 この世には、、あるッッ!!!
理屈抜きのいきているあたたかみ 空気のようにかるくて海の底のようにおもい何か 相手につうじる、つたわってしまう何か
そういうものを踊りたいとおもったときに、 ここでいう汚れをとりのぞきたいとおもいました スクリーンだけの自分にどうやったらなれるのか 『The 3rd BIRTHDAY』にはそのときの思いが つまっています それまでの経験はつらいことばかりでした わたしにとってはきわめてしんじつです しかしそれを伝えたいわけじゃないのです それをどうやったらつたえられるのか かんがえてもかんがえてもたりません かんがえるものじゃないのかもしれません そうおもったときにカラダのほうが それを知っている気がしました カラダのほうが憶えている気がしました わたしの先生・黒沢美香さんも言ってました “からだにききなさい” カラダがきっとおしえてくれる わたしたちが頭でかんがえることよりも カラダのほうが知っていることがあります それをしんじておどってみよう、 そうおもったのです
純粋なものをとりだすことは極めて困難です とりだそうとすればするほど いかがわしいものに変容を遂げてしまいます そして、とらえかただって人それぞれです これはまことにむずかしいものです そんなむずかしいとおもっているものでも その実はひどく単純で明快です なにしろ《つたわってしまう》んです
自分ひとりで完結できないもの それがわたしのおどりたいダンスです
|