| 2016年07月17日(日) |
無知がなくなることで |
「無知がなくなることで、見る者と見られるもの との混合は止む。 この状態は《独存》、 見られるものからの独立と呼ばれる」
こんにちは。 スートラです(爆) 今回もまことに興味深いところですので是非w
《孤独》(aloneness)が意味するところを 考えると、興味深い。 これは幾分寂しさ (loneliness)と似ているところもあるが、 実はまったく違う。 寂しいというのは誰かと一緒にいることを欲し、 切望しているにもかかわらず、 それが奪われた状態にあることをいう。 寂しさとは何かが欠如した状態であり、 単に一緒にいる人がいないというだけなのだが、 それを受け入れることができない。 ここでは某歌手の話が書かれています。 某歌手はこう言ったらしい 「寂しさとは愛がないことである」 孤独は、これとはまったく逆である。 これは《all-one-ness》(すべてはひとつ) という言葉が一緒になって作られたものである。 最も深いところでは、すべてが1つの現実、 無限の意識を表現しているのである。 これを認識した者は孤独であり、 同時にすべてとひとつである。
これまで、孤独という言葉・漢字には なんとなくネガティヴな印象を感じていました。 が! この文章を読むと違うかもしれない、と ちょっとおもいましたw なにしろ、わたしたちはそれぞれ間違いなく 孤独だからです。 命をまっとうした暁に、死ぬのはひとりです。 たぶんわたしたちのいきつく場所はここです。 わたしたちは死ぬからこそ寂しさを感じる気が するのです。 でも、よーく考えると死ぬことはあたりまえ。 あたりまえのことなのです。 わたしたちは失うことを約束されているのです。 これを土台におくと世界の見え方は一瞬で変わり ます!
だからこそ、失うことをおそれない生き方がしたい
わたしはそうおもっています
なのでスートラもひとつの考え方であるという真意 のもとにすすめます☆ この本にいかがわしいとおもうところもあるかも しれませんが、それはわたしも同じですw でも、どこかで何かの役に立つかもしれません!
すべてが1つであるというのは、 最も深いところではすべての生命は1つの意識 であると認識したことを意味する。 こういう人物が孤独だと呼ばれるのは、 自分の魂の中にすべての人間の魂を見出だした からである。 幸福を経験するのに、誰かと一緒にいるような 外的接触はまったく必要ない。 この状態では、寂しさと呼ばれる深い傷が 癒されている。 実は、誰かと一緒にいることは継続できることで はなく、そのため寂しさを癒すことはできない。 いつの日か、私たちも、目の前にいる友も死ぬ。 そうなれば、一時的に隠されただけの傷口は 再び開くのだ。
いつの時代も何かが欠如していると思っている人が 常にいたのかもしれません。 どこかに寂しさや空しさをかかえている人。 わたし自身はリハビリでヨガをはじめましたが、 そんな欠如をかかえているときに、 クラスできいたことば 「私たちは生まれたときから満たされている」 たりないものは何ひとつない、というものです。 この言葉にはおどろきと発見がありました! なにしろそんなこと考えたことがなかった。 人と比べて自分にたりないものが多すぎて。 比べることは無意識に「だからうまくいかない」に つながっているのかもしれません! その言葉は欠如をかかえている人には大きな救いと もなる偉大なものです。 ですが、これは捉え方なのですが、 「すべてが満たされている」ことにあぐらをかくと 成長できなくなります。 成長しなくたって満たされているからです(爆) 下手すると《私は私でよい》で完結してしまいます これはまことに問題ではないでしょうか。 だからこそこのスートラは聖典なのだろうと おもいます。 受け取り方をまちがえない人に教えられていった 伝えられた真理。
肝心なのは間違わずに受け取れるか
やはりこればかりはわたしたちの成長が必要です。 そのときの感情や思いに のみこまれてしまうのが人間だからです もしかしたら《悟り》というのも、 寂しさと背中合わせのものかもしれません。 考え方。これは考え方ですが、 すべてを知ってしまうことはたいへんな退屈かも しれません。 知らないことがあるからこそ驚きや発見があるのだ とおもうのです。 わたしたちも年齢を重ねれば重ねるほど 《すべてを知っている》気がするものですw そしてあたらしいことをしないようになります。 知ったような気持ちは老いに直結しているように 感じるのです
いつも。今も現在も、すべて新鮮です 自分自身でさえ細胞はめまぐるしく入れ替わって いるくらいです いつまでも驚きを忘れずに生きていたいですね☆
つづく。
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