「心の清澄は他人の幸福への親しみ、不幸への あわれみ、徳への喜び、不徳への無関心を 抱くことで生じる」
障害の存在する散漫な心は、成功している人に 対してうらやみの気持ちで反応するという傾向 があるという。 現代の《成功した人をねたむ風潮》は、この 現象のよい例だ。 どんな点にしろ際立つ人がいれば、現代人は その人を平均的なところまで低くして見る方法が ないか探す傾向にある。 パタンジャリは、そういう傾向に従うのではなく 成功した人に出会ったら親愛の深い気持ちで瞑想 するように、と提案している。 一方散漫な心は、しいたげられた人に出会えば、 苦境の原因は本人にあり、その人物が引き寄せた カルマ、あるいは間違ったことを考えたり 信じたりすることにあると捉える傾向がある。 パタンジャリは、この散漫な心の展開にそのまま 溺れるのではなく、あわれみの気持ちで瞑想する ように提案している。 また、素晴らしい徳を持ちスピリチュアルな道に 従う人に出会えば、私たちはただちに(実際は そうでないのだが)自分もそうでなくてはならな い、と思い起こす。 そして、ねたみの気持ちを抱き、そういう人の 評判を下げる方法を考える。 これに対してパタンジャリは、もし心が清らかな 状態にあれば自然な反応として湧き起こるであろ う喜びをもって瞑想することを提案している。 最後に提案されていることは、おそらく最も 難しい。 不道徳あるいは邪悪にすら思われる人物に出会っ た時には、そういう人を嫌う傾向にある。 このような反応をするのは、うまく隠しては いるものの自分自身の中にもそういう面がある ことを思い出してしまうからである。 自分自身が持つ暗い面への拒絶でしかない嫌悪感 を持つより、こういう人へは無関心でいることを パタンジャリは提案している。 これら心の状態の悪化を和らげる方法が、 心を清澄にして静めるための瞑想技法である―
ここで記述されている《傾向》には、、 唸り声を上げてしまいました!! これ、、深すぎるよね?? 際立つ人がいれば、その人を平均的なところまで 低くして見る方法がないか探す傾向にある、とか …唸るしか、、ないw 評判を下げる方法を、、考える!? …唸るし、、か、な、くな、いですか??(爆)
俺はおそろしくなりました
今日ふれている教義はわたしたちが日頃《黙殺》 しているようなことです。 無意識におこなっているかもしれない思考。 その《傾向》ってどうやって生まれるの!? まったくわからない!! しかしそのいくつかの傾向にしっかりと提案が なされているのだ☆
マジかーーーーー
わたしは感動してしまいました 最終奥義が《無関心》だなんてねw ジハツテキにわたしたちが実行できる奥義! この聖典は《自発的にできることがあること》を おしえてくれます。
スートラ... ほんとうにすごい
知ってしまえば自分自身で変えていける方法を 見出だすのみです☆ 無意識におこなってしまう《傾向》に向き合うこと が必要になりますが、向き合うことができれば 修正・打破していけるところに身を置けます。 わたしたちはほとんど無意識にまで考えをめぐらせ ることがありません。 なによりも通り過ぎているものです。 それについて注意深く、どうしたら心を清澄にでき るのか、こんなにも書いてある書物がこの世にある だなんてね。。 ほんとうにすごいとおもいます
なにしろ紀元前とかなんだかそこらへんですよw
わたしたちのあたりまえ《傾向》を打ち砕くには、 その瞬間を注意深く観察しなければなりません。 向き合うというだけでも圧倒的困難です! なぜなら自分自身のことほどおろそかにできること はありません!! 考えないのが一番楽なんだものね(爆) しかし。 この《傾向》をほんとうに打ち破れたら、、 まちがいなく《自由》です 確実に世界は変わってしまうとおもいます
つづく。
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