断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年07月06日(月) 「おはなしの種おろし」

モサポンに誘われて行ってきました!

 まきとよしの
 『おはなしの種おろし』
 〜大人のための “音” と “絵本” の読み伝え〜

 絵本はこどもだけのものではありません。
 絵本は読んでもらうものでもあります。
 絵本はアタマで読みません。
 絵本はこころの耳で聴きます。
 絵本はこころのスクリーンで観ます。
 よしが読み、まきが音と歌を奏でる。
 おはなしの種を誰かのこころにおろします―

ちなみにモサポンのモサは猛者のモサですw 強撃。
さて、会場はカフェ。 狭い催しでした
リアル余裕のSOLD OUTw
しかし、だからこそものすごい期待がありました!
わたしも狭いところでダンスを踊っているからです。
何かが、次のビジョンが、見えるかもしれない!

 そんなわたしでしたが、、
 もう全然。ぜんぜん想像力足りていなかった

近いからこそ伝わる、圧倒的な何か。
何気ないフツーの声が、物語が、歌が別次元です!!
想像力とかそんな言葉のものじゃない、
感じたことのない気持ちが押し寄せました
その後半は駄駄泣きしていました
涙が止まらないのです

 なぜあんなに泣いてしまったのか
 ほんとうにわかりません

感動って一体なんなんでしょうね??
それまでの経験では測れないものじゃないのかな
予測なんてできないもののはずです
今の自分の状態や精神もあるでしょう
事実、わたしは自分のしたいことがまだできません
その悔しさが引き金だったとしても、問題は中身です

 それは、自分が描き出したい空間そのものでした

あらためてその舞台のことを思い出すと、奇妙です
不思議なほど まき&よしさんは自然体でした
“何か特別なことをするんだ” みたいなものがない。
淡々と物語がすすんで、
それにピアノ弾き語りが寄り添っている
そんなステージだったのです

自分に重ね合わせてみると大きな差異を感じました
まず最初の時点で、
“特別なことをしなくちゃいけない” が掛かります
みなさまに見ていただくことに、お金を払っていただ
くことに誠心誠意向き合うとフツーではダメなのです
したがって、その準備も甚だ膨大です
どうやったら伝わるのか
どうやったら受け取ってもらえるのか
焦点はどこなのか 流れをどうするのか
それこそ死にものぐるいのように当日まで
ガタガタ震えながら毎日をすごします
伝わらなかったらどうしよう
受け取ってもらえなかったらどうしよう
そんな不安と葛藤を通り越しての本番なのです
誰かにつくってもらったりできない
自分のステージとは、常にこんな気持ちです

もちろん同じおもいが彼らにもあるはずです
本番はいつだっておそろしいものだからです
だけど何と書けばいいのでしょうか
そんなものが
かるく “考えすぎ” だと気付かされるステージでした

絵本が読まれ、追随する身の丈の弾き語り
それは決して大きなことではありませんでした
“身の丈” というのがぴったりきます
これこそがこの空間を生んでいる源じゃないか
そうおもったのです

 大きくすることが感動をうむわけじゃない

大きな舞台で踊ってみればわかりますが、
力はいくらあっても足りません
客席の最奥までエネルギーが届くのか
カラダ全身で踊るというのはそんなことです
そのために、それができるカラダをつくること
精神論以前にフィジカルです
ダンサーは毎日ここにこそ時間を費やしています
ですがどうでしょう
このステージではこれが逆転してしまいます
フィジカルなんかより、圧倒的にハートです
気持ち。
これがなくては狭い空間では成立し得ません
広ければカラダを酷使して技術を使えます
ですが狭かったら??
むろん狭いからこその技術もあります

 だけど、ほとんどこれじゃなかった

それは《秘密を共有するような空間》でした

人と人の近さが、そんなつながりを生むのだと
あらためてわかったのです
なまじヨガなどを学んで、先生たちがいうところ
「そのままでいいのよ」
これがそのまま展開されているような舞台でした

 そのままのことがそのままつたわる

そしてそれが空間を満たして循環している

これはとんでもない発見でした
やっている側だと、することに集中していて
空間のことにまでなかなか気付けません
いち観客になってはじめてわかったことです

“そのままのこと” がどんな空間をうみだすか

それは、とんでもなく静謐な空間です
みんなが耳を傾けて、みんなで聴いているのです
みんながひとつになっているような
そんな感覚でした


踊りたい
そうおもったのです


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Taisuke [HOMEPAGE]