断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年01月31日(土) 「茶の本」

そこには、お茶の美味しい飲み方は書かれてませんw

 『THE BOOK OF TEA』   岡倉天心

この本で日本人の美意識の源流を見出だす!!
原文は英語ですw
美術運動の指導者・思想家、岡倉天心が、
1906年にニューヨークで出版したもの。
日本の伝統文化がなおざりにされていた時代に、
もう一度日本美術を復興しようとした人。
時代の態勢は欧米化、近代化の方向で、日本社会
からはあまり受け入れられず、日本の外に出て
世界に向かって日本を紹介しようとした。
天心の青年期は廃仏棄釈、明治初期、天皇中心の
社会では神道を敬うことが正しいとされ、仏教は
否定され仏像は破壊の対象となっていた―
大学卒業後、文部省に入省した天心は仏像の
復興計画を政府に進言。
さらに東京芸術大学の前身、東京美術学校を設立。
日本画家の育成に努めた。
しかし当時の日本は脱亜入欧を目指しており、
西洋化を急速に進めていた。。
その頃、天心は頻繁に海外を訪れ、日本文化の源流が
アジアの風土や人々に根付いていることを確信。
そして1904年、
ボストン美術館で東洋の美術品の収集に励んだ。
日清、日露戦争に勝利した日本は国際社会において
一躍注目を集めることになる。
侍の精神を示した新渡戸稲造『武士道』が評判を呼び
強い日本のイメージが定着。
アメリカでその空気に直に触れた天心は、戦争に
勝ったことだけで文明国とされるのは腑に落ちない、
と感じ、愛してやまない平和的な日本文化を
世界中に広めようと『茶の本』を出版した―

天心は外から日本を見る視点があった、
日本最初のバイリンガルの一人。
こういう人は当時、非常に稀有な存在だったはず。
この本の概要は以下。

明治以降の近代化の時代の中では現実的なものに軸が
置かれていた、それに対してインドの哲学にせよ、
中国の哲学にせよ、もっと物質や現実を超えた精神的
な理想ってものをアジアの文化は追求していたんだ、
近代はやがて物質文化は限界にぶつかる、だからそれ
を乗り越えるためには、今見捨てられている精神的な
文化を復活させなきゃいけないんだ、と。
今の近代文明を超えるような世界観・哲学が
《一杯のお茶》の中に凝縮されているんだ、と―

 茶はもともと薬として用いられ、
 やがて飲み物となったものである。
 15世紀には、ついに美をきわめ崇める宗教
 すなわち茶道へと高められたのである。
 茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に
 身を置きながらそこに美を見出し、
 敬い尊ぶ儀礼である。
 そこから人は、純粋と調和
 たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、
 社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。

 茶を飲むという日常の行為を
 文化や思想へと高めたところに日本の独自性がある
 私たち日本人の住居、習慣、衣服や料理、陶磁器、
 漆器、絵画そして文学に至るまで
 すべて茶道の影響を受けていないものはない。
 日本文化を学ぼうとするなら
 茶道の存在を知らずには済まされない。

海外に滞在して現地の人と話すとき、
日本のことを説明できないと大変なことになります。
これは誰もが経験することじゃないでしょうか?
◎確実に恥ずかしい思いをする◎
自分がどんな国からきて、
どういった生活や生き方をしてきたのか。
これが言えないと周りを激しく疑わせてしまいます。
日本にいればさして問題にしなくても生きられますが
自分自身を説明できない人は一様にそういうことです
たとえば舞台。舞台に立てば全てが明るみに出ます。
自分自身がどんな存在であるか。
これを曖昧にしたままでは、舞台には立てません!
さあ今こそ日本人としての自分を学ぶときッッ(爆)

日々の中にこそ本当の美とか哲学がある
それを思い出さなきゃいけない

我々は現実を生きなければならないが、
その見方を変える手段として、
お茶を飲むということがある。
《お茶を飲む、一息入れる》
置かれている状況を俯瞰してみること
これはもう、瞑想といえます。

不完全であるからこそ、
余白の部分に無限の可能性がある

これはまったく踊りにも当てはまります

踊らない部分にこそ無限の可能性がある

 茶道の理念はことごとく
 暮らしの細々とした事柄のうちに偉大さを見出す、
 という禅の考え方に由来する。

 茶室こそが茶道の精神。老荘と禅の思想の結晶。
 茶室は別名「すきや」と呼ばれますが、
 3通りの漢字を当てることが出来る。
 「好き家」
 かりそめの家。 世の中は移り変わるもの、
 その瞬間の美しさを大切にするという
 日本人の美意識です
 「空き家」
 西洋の家と比べるとわかりやすい。 西洋では、
 家を美術品や彫刻で飾りたてる傾向にある。
 日本人は違う。
 茶室では装飾は常に変化するのである。
 「数奇屋」
 数奇屋。 すなわち非対称の家という呼び名は、
 日本の装飾原理のもう一つの特性を示している。
 完全そのものより、
 完全を追求する過程を重視したのである。
 真の美というものは不完全なものを前にして、
 それを心の中で完全なものに仕上げようとする、
 精神の動きにこそ見出されるというのである。
 西洋ではインテリアや建築に完璧なシンメトリー
 を施し、美しいものとして表現する。
 しかし対称的なものは、
 見る人の心の動きを固定してしまう。
 感覚の広がりがなくなってしまうのだ―
 茶室にはシンメトリーのものはありません。
 ここに日本人の美しいものに対する感じ方が
 あらわれているのです。

これには唸りました!!
あらためて、わたしは完成された踊りを
目指していないんだと、ほんとに思った
完成されたものじゃない
もっと別のものに触れたい

天心は、芸術との向き合い方について
こんなエピソードを紹介しています。

昔、森の王ともいうべき立派な桐の木から作った琴がありました。 皇帝のもとに秘蔵されていた琴は真の名人しか弾きこなせないと言われ、多くの音楽人が挑んだものの誰一人として思い通りの音を奏でることができません。 そこに伯牙という琴の名手が登場。 不思議なことに伯牙が琴を弾き始めると春のそよ風が木々をやさしく揺らし、無数の虫の音や雨音がよみがえり、夜の砂漠では剣のように鋭い月が、霜のおりた草の上に輝き、冬になった。 さらに調子を変え愛の歌を歌い始めると、森は熱い想いをかかえて物思いに沈む若者のように打ち震えた。 皇帝は伯牙に技の秘密を尋ねると伯牙は言った。

「ほかの者たちは自分自身のことしか歌おうと
 しなかったから失敗したのです。 だが、私は、
 何について歌うかは琴にまかせました。
 そして、そうするうちに
 琴が伯牙なのか、伯牙が琴なのか
 ほんとうにはわからなくなってしまったのです」

 自分の考えだけを押しつけず、
 自分をからっぽにすることで相手を呼び込み、
 相手の思うがままに振る舞わせる。
 こうして得られる《自他一体の境地》。
 芸術とは、互いの共同作業である―

これはまったく目指すところじゃないか!?
自分が考えていることが文章になっていた
震えましたね…
《自他一体の境地》とは《感動》そのものです

ダンスはお茶だったんです
お茶飲めば、踊らなくていいのかも(爆)

わたしにとってのお茶は、ダンスなのでしょう。
ダンスを見ている人の中で完成していくもの。
それには、一方通行じゃダメなんです!!

茶会は、主人がお茶をたてるところで終わるわけじゃなくて、お客ひとりひとりがお茶を、飲むことで完成されるわけですよね

日本を代表する建築家はこう言ってました。
「西洋の建築っていうのは、 “西洋の建築は偉い”
 “人間が作った直線の方が偉い”
 っていう感じなんですよ。
 日本の数奇屋建築は柱の皮を残したり
 曲がっていたりちょっと自然の方が偉いかもw
 人間の作為なんてfoolish(愚かさ)
 そういう感じの建築。
 その辺のところを天心はついている。
 自然に対する態度の違いを鮮明に書いてますよね」

わたしのダンスは《負けるダンス=反洋舞》です。
わたしはそういうものを踊りたい
『茶の本』から自分の目指すダンスが
想起されるだなんて、思いもしませんでした!!

最後に先生は言いました。
天心は100年後の思想を先取りしていた、と。
いずれ近代化の動きは行き詰まりに達すると
見通していた。
そのときにこそ、東洋の伝統文明、あるいは日本の
伝統文化の考え方がふたたび意味をもつことに
なると予言していた。 人間はそれを自覚して、
それに添って生きていかなければならないんだ、と。

大事なのはこころなんだ、と。


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