断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2013年04月16日(火) 「夏への扉」

人生で、はじめて早川書房の書籍を手に取りましたw

 『夏への扉』   ロバート・A・ハインライン
 A・P、フィリス、ミックとアンネットほか
 世のなべての猫好きにこの本を捧げる

文化女中器を軸とした痛快SF小説です!!
って言って、文化女中器を誰がわかってくれるんでしょうか…
きっと読んだ人じゃないとわかんないよね―

さぁこの本も差込がいくつかあります。
もう3ヶ月も前のことですからよほど草稿できてないと読み直しですw
はじめの差込は、っと…

 そしてそれ以後ならば、仮に誰かが、ベルの前歴を調査してはと
 言ってきたとしても、ぼくは憤然としてそれを退けたにちがいない。
 そのころはすでに、彼女のバストの寸法が、
 ぼくの判断力に甚大な影響を及ぼしていたからだ。

ある意味で、これが夏への扉だといってもいいくらいです!!(殴
ああ甚大な影響、なんとおぞましい生理現象!!
そう、この世は惚れたほうが負け。 受け容れましょう
幸か不幸か、現在 わたしにそこまで甚大な影響を及ぼす人はいませんw
現代で“甚大”はたいへんな危険を伴います。
行き過ぎた人たちの末路はとんでもないものですよね。
そうです、どこかでわたしたちはわたしたちのこころを律しなくては!

 「ああ、そのことよ。
  あなたから、そのことをいいだしてくれて、助かったわ。
  ねえ、あなた、わたくし、いろいろと猫のことを研究してみたのよ、
  いえ、ほんとうに。
  それで、ピートを、去勢しなければいけないと思うのよ。
  そうすれば、ずっとおとなしくなるし、アパートの中だって、
  ちゃんと飼えるようにもなるわ」
 ぼくは目を瞠ってベルを見つめた。 われとわが耳が信じられなかった。
 ぼくのピートを、誇り高い老戦士を、宦官にしようというのか?
 彼を、炉辺の置きものに?
 「ベル、なにをいってるんだ!」 ぼくは思わず叫んだ。
 彼女は、例の“ママはなんでも知っている”調の甘い口調で、
 猫を私有財産と勘違いしている連中の必ず使う陳腐な言葉を羅列して
 ぼくを説き伏せようとした―
 それが、彼にはなんの害も与えないこと、それが彼のためにこそなれ、
 悪いことはひとつもないこと、ぼくが彼をいかに愛しているかは、
 “わたし”が一番知っている、だから彼をぼくから取りあげようなどとは、
 これっぽっちも思っていないこと、それが、どんなに簡単で安全で、
 おまけにどんなにみんなのためになるかということなど…。

この感じは多くの女子がもつ特性であるような気がします。
ある一点の抜け落ちたこういう物言いはよくあることだからです。
もちろん全部あてはまるわけではないし、男にだってありうること。
ただ、この言い方は相手のことを思っているような自分本位です。
おそろしい会話術だといえるでしょう。

 ぼくはふと、すでにぼくが、それと意識せず、
 コールドスリープに行かないつもりでいることに気がついた。
 あの医者のしてくれた注射とお説教のおかげで、
 ぼくはすっかり真剣な心構えを取り戻していたのだ!
 いまや、ぼくのバックボーンは筋金入りだった。
 もう、冷凍睡眠などで現実を逃避はしないぞ。
 踏みとどまって闘うのだ―

“真剣な心構え”それは人間にとって、もっとも大事なものかもしれません
そのときの勢いや感情がいい目を出すときは“負の力”でないとき。
強烈な怒りや哀しみは選択をあやまらせてしまう原因になりやすい。
(※自分自身への怒りは正しく使えば急成長できる可能性をもつ)
相手があることに対しては自分の失敗が見えにくくなるものです!
これはドラゴンボールの悟空で検証できます。
孫悟空がスーパーサイヤ人になるとき。
あれはおおよそ自分自身の力のなさからくる絶望的な憤怒からでした。
黄金に逆立つ髪と輝くオーラをまとい“カッコイイ”とされています。
自分自身への怒りということで言えば急成長のたまものですよね。
でもあれは種族の差はありこそすれ、やっているのは人殺しです。
どこが“カッコイイ”んですか?
フリーザの行動がどんなことか諭すのがすべてのはじまりのはずです。
でも、それをあきらめたんだよね。
実は孫悟空が相手を切り捨てて排除した瞬間なのです

 かなり長い時間、ぼくはなにがなにやらわからないでいた。
 確か、そのうちの一部は、手術台のようなものの上にいて、
 その台がぶるんぶるんと振動し、蛇のような格好の機械があって、
 煌々たる灯りがさし、無数の人間があたりを動きまわっていた。
 だが、ぼくがはっきり目を覚ましたときは病院のベッドに寝かされていた。
 気分はもうすっかりよくて、ただ、トルコ風呂に入ったあと感ずるような、
 半分身体が漂うような不安定な感覚があった。
 手も脚も、もとどおりくっついていた。
 だが、誰一人ぼくに話しかけようともせず、一度など、看護婦の姿を
 見かけてこっちから口をきこうとした途端に、口の中へ何かつっこまれた。
 それから、長い長いマッサージを受けた。
 そしてある朝、爽快な気分で目を覚ますと同時にベッドからおりてみた。
 ちょっと眩暈がしたが、たいしたことはなかった。
 自分の名前もわかったし、なぜこんなところへ来たのかも、
 この現実以外のすべてが夢だったこともちゃんとわかった。
 ぼくは、誰にここへ入れられたのかも知っていた。
 ゾンビー・ドラッグの麻酔をかけられて、ベルに、
 彼女の奸計を忘れてしまえと命ぜられたはずだったが、
 三十年間の冷凍睡眠がその催眠力を洗い流してしまったのだろう。
 細かいことは多少ぼんやりしていたが、彼らがぼくをどのようにして
 ここへ誘拐してきたかも、ぼくははっきりと思い出すことができた。
 ぼくは最初、とくに怒りの感情をおぼえなかった。
 それもそのはずだ―
 それはほんの昨日の(昨日という言葉が一夜の眠りを境とした前の日の
 ことである以上)出来事に過ぎないように思われこそすれ、実はその間に
 三十年の歳月が流れてしまったのだから。
 この感情は、非常に主観的なものなので、正確にいい表しにくい。
 だが、ぼくの記憶はまさに昨日のことのようにまざまざと鮮明なのに、
 その記憶にまつわる感情は、遠くかすかなものでしかないのだ。
 諸君はテレビの野球実況を見ていて、画面がロング・ショットから
 クローズ・アップに移るとき、画面いっぱいに拡がった投手のピッチング
 モーションのはるかむこうに、球場の全景が見えて、その彼方に
 投手自身の豆粒のような姿が、まだ白昼の亡霊さながらに残っているのを
 見たことがあるだろう。 ぼくの感情はなにかそれに似ていた…
 ぼくの記憶はクローズ・アップ。
 そしてぼくの感情は、画面の背後に拡がる球場の全景だ。

この描写はたいへん興味深いものでした!
わたしは時間を超えたわけではないけれど、なんとなくわかるのです。
この作者も同じ経験をしたのでなければたいへんな想像力です。
目が覚めたわたしは記憶がぐちゃぐちゃになっていましたが、

たしかに“記憶にまつわる感情は、遠くかすかなもの”でした

あのとき、もしかしたら時間を超えたのと同じ経験をしたのかもしれません
それまでいろんなことがありました。
裏切りやパワハラ、誤解と真相、うまくいったこといかなかったこと。
喜んだり苦しんだりしたことのすべては相手があったことでした。
あのときはそのことが遠いところに拡がっていたような気がするのです。
これは下手すればたいへん誤解を生むような文章かもしれません。
でも最初にいっておきますがこんなのはなんの自慢にもなりません。
ただの個人的な経験です それでもわたしにとって人生が変わった経験です
そこで上の文章はとても共感できるのです。
“この感情は、非常に主観的なものなので、正確にいい表しにくい”
文章でどうやったら熱意が伝わるんでしょうか。
できるかぎり誤解されないやり方はないのか、ずっと考えています。
これはダンスをおどるときも同じ気持ちです

 ぼくは、心ひそかに、近いうちに必ずいくらかでも技術に関係のある
 仕事にありついてやるぞと決心した。
 もちろん、ぼくとても、自分が再び技術者といわれるだけのものに
 なったと自惚れるほどの馬鹿ではなかった。
 ぼくがまだ学びきれない― 自家薬籠中のものとしきれないことは、
 山ほどあった。 新しく身につけた技術を使って、ああもできる、
 こうもできるぞと内心得意で図書館の本を見ると、すでに誰かが、
 その同じ問題を、ずっとスマートに、見事に、しかも安く、
 も一つおまけに十年も十五年も以前に考え出しているという事実に
 ぶつかったことも、二度や三度ではなかった。
 ぼくは、どこかの工業関係のオフィスに雇われて、そうした技術を、
 骨の髄にまで浸透させたかった。
 そのためには製図工の見習いの職にでもつければ一番いい。

ダンス作品や振付をつくっていた初期に悩まされたこと。
それは“自分らしい”ダンスをつくることです。
しかし、これは!というものをつくっても誰かがとっくにおどってたw
ダンサーなら誰もやったことがないものに固執したことがあるはずです!
今なら振付が自分らしさを決めるものじゃないことを知っています。
ダンサーならどんな振付をおどっても自分らしさが先にあるはずだからです
これまでつくってきた作品でも、振付はただの計画書であって、
その人らしさ、その人の本物を引き出すことをもっとも重要視してきました
これがわたしのコンテンポラリーダンスです
わたしが好きな歌の歌詞を引用すると
“借り物の力でかまわない、そこにたしかな鼓動があるなら”
それでも、ここにいきつくまでたいへんな時間を要してしまいましたw
かるく回り道しすぎです!!
あたらしくなってからはこれまでやってこなかった技術に向き合いました。
できない技術、ほんとうに下手くそで恥を棄てなきゃやれませんでした…
いい大人がいい恥さらしをやってるわけですから
骨の髄まで、なんてわたしのような者が言うことは出来ませんが、
すこしでも浸透させたい思いが、すこしでもいい踊りがしたい思いが、
“そのためには製図工の見習いの職にでもつければ一番いい”
恥を忍ぶことを選択させたのだとおもいます

 なぜそんなと、理由を訊かれても答えようはない。
 自分の仕事は、自分にはわかるのだ。
 美術評論家は筆さばきの具合ひとつから、あるいは光線のあてかたから、
 構図の取りかたから、絵具の選択からでさえ、
 これはルーベンスであるとか、レンブラントであるといったような
 見わけがつく。
 技術家の仕事もおなじことで、ある意味では芸術だ。
 一つの技術的な問題を解くにも、それぞれの流儀と方法がある。
 技術家は、絵描きとおなじように、その流儀の選びかたで、
 自分の仕事にはっきり“署名”するのだ。

この小説では勇気づけられることがたくさんありました。
それは舞踊家でも振付家でも、なんだってそういうことだからです。

自分が自分らしくいさえすれば、いようとすれば大丈夫

長くなってしまいましたが最後は流したいとおもいますw

 ぼくは考えようとした。 頭がずきんずきんと痛んだ。
 ぼくはかつて共同で事業をした、そしてものの見事に騙された。
 が― なんどひとに騙されようとも、なんど痛い目をみようとも、
 結局は人間を信用しなければなにもできないではないか。
 まったく人間を信用しないでなにかやるとすれば、
 山の中の洞窟にでも住んで眠るときにも片目をあけていなければ
 ならなくなる。
 いずれにしろ、絶対安全な方法などというものはないのだ。
 ただ生きていることそのこと自体、
 生命の危険につねにさらされていることではないか。
 そして最後には、例外ない死が待っているのだ。


 「ついてくれるわ、きっと。 必ずついてくれるわよ。
  だってお祖母さん、人間はどうしても少しは罪のない嘘をつかなきゃ、
  おたがいに仲良く暮らしてはいけないって前からいってたもの。
  嘘っていうものは、悪用しちゃいけないけど、
  つかわなきゃならないときもあるんですって」


 この世の真理がどうであろうと、ぼくは現在をこよなく愛しているし、
 ぼくの夏への扉はもう見つかった。
 もしぼくの息子の時代になってタイムマシンが完成したら、
 あるいは息子が行きたがるかもしれない。
 その場合には、いけないとはいわないが、
 けっして過去へは行くなといおう。
 過去は非常の場合だけだ。 そして未来は、いずれにしろ過去にまさる。
 誰がなんといおうと、世界は日に日に良くなりまさりつつあるのだ。
 人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、
 器械で、勘で、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いてゆくのだ。

 世の中には、いたずらに過去を懐かしがるスノッブどもがいる。
 そんな連中は、釘ひとつ打てないし、計算尺ひとつ使えない。
 ぼくは、できれば、連中を、トウィッチェル博士のタイムマシンの
 テスト台に放り込んで、十二世紀あたりへぶっとばしてやるといいと思う
 

わたしは時間のパラドックスなく、スマートな
SF小説をこれまで読んだことありませんでした!!
すごくすがすがしい気分が襲う、そんな作品だとおもいます
作者は自分の文章の中に自由を見出しています
その自由さがとっても心地いい波動を生んでいるとおもうのです
是非よんでみてくださいネ☆


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