| 2013年01月20日(日) |
終わらないAKIRA |
『AKIRA』その原作はやっぱりあんな感想では終われませんでしたw もう一度読み返してみると、初見よりも深く自分自身が見えてきます いい映画は何度でも見れるっていうあの感動のようです アキラの意識が戻ったとき、それは銃で撃たれたあとでした
「キ…ヨ…コ……」 「アキラくん 意識が…」 「マサル…」 「判るのかい 判るんだね アキラくん」 「タカシ…は… みんな…は」 「大丈夫… みんないるわ…」 「私達はいつも一緒よ…」 「力を…使えるかい」 「アキラくん…」 「うん…」
いくら読み返しても涙がでそうになるページです なんでだろう きっとこんなこと書いてもバカにするひとのほうが多いかもしれないね それまでのアキラは感情がない人形みたいでした アキラの力が暴走したのは他者がその力を性急に発芽させようとして起きた事故なら 正気でなければほんとうの力はただしく使えないということなのかもしれません そのページのアキラの表情は、全員の表情は“充たされている”んです しかし現実にはアキラは撃たれており、命は危険に晒されています これはわたしにもおきたことでした 想像力をつかってくれる人でなければ何も返ってこないことはもう知っています 大それたことを言うつもりは毛頭ありませんが このことをフツーの人に問いかけても応えてくれることはほとんどありません
自分でさえ、生きていることに あれほど“充たされていた”のを感じたことはありませんでした
それは、誰を憎むことも疑うことも苦しむこともない優しい世界です 大切な人たちが目の前にいる “生きている実感” 不思議なことに“自分が在る”ということですら“示す”必要がなかった 認めてもらわずとも“わかって”いるからです あのときの気持ちに酷似している気がしてならないのです そこに行き着けたのは命に本物の危険が迫ったからなのかもしれません アキラも銃で撃たれたからこそ正気を取り戻せたのかもしれない みんなそれぞれに“生きている”という捉え方が違います それは、それぞれの経験が何をもって生きているとしているか異なるからです わたしの中ではそれが“自分が死ぬ”ということに起因されています 自分でも勘違いしてはならないこと それは“生きている”ということに優劣なんてないってこと ただ、誰もがいつか根源的なところに着地するだろうとおもいます
自分が「どうして?」と考えてしまうことについては 不本意ですがこの物語の核心を避けられません
「アキラは人類の進化に曲折をもたらそうとしたのかもしれん…」 「何の為に? 進化だってプログラミングされた流れじゃないのか?!」 「我々の意志が選択出来る流れもあるとは思わんか?」 「人類が 別の進化を望んでるってのか!」 「その結果は… お前の子供達が見ることになるじゃろう…」 「馬鹿な! 鉄雄や あのラボの白いガキ共を見なかったのか?! あれが人類の選択だって言うのか!!」
別の進化、、わたしたちは常により良い未来を想い描いているはずです 現実に押し潰されている人が大半ではありますが 未来に向かっている人は一目見ればわかります 自分に置き換えてみれば、 つらかったことが自分を育てて“楽しくする術”を編み出した これは天性の才能からきているものではありません 自分が経験してきた苦痛のなかから無理矢理に得たものです だから、きっとわかる人が見れば奥底に抱えるネガティブさがわかるはずです それでもそんなネガティブな世界を変えたいと願ってここまできました 未来を変えたい、そんな切実な想いが頑張ることを生みだしています そして、よりよいものにしようとする力はまわりにも伝播していくのを感じます わたしのような者でも意志で選択すれば言葉にできない何かが、流れができるんです
「お前達の力は不仕合わせしか生まなかったのか!!」 「でも… 仲間が出来たわ… 言葉に頼らない心の話が出来る… 本当に理解し合える仲間…」 「理解し合える仲間…」 「ミヤコや神殿の人達… そしてケイや… チヨコおばさん 鉄雄くんや…」 「まてよ どこへ…」 「金田くん…」
本当に理解し合える仲間 言葉に頼らない心の話が出来る わたしにとって それはダンスです ダンスではウソがはっきりバレてしまうからです 言葉ではどんなに想いを伝えようとしても過不足がでます ダンスでは、ソロであれば一方的に力を示せば成立はするでしょう しかし、他者と踊るには誠実でなければ成り立ちません その人自身の本質がこれほど問われるものが他にあるでしょうか わたしの尊敬する師匠の言葉にこんなものがあります 様子や気配でつながっていくこと ダンスはそういうものでやっていかなくてはならない そういうものをわたしは尊いと思っています 好きな人と踊るときもあれば嫌いな人と踊るときだってあります 関わりがなければダンスは生まれません こんなにも人との関わりが大事なものがあるでしょうか 本気でぶつかり合わなければダンスにならないのです カラダでぶつかりあえば膨大なその人を感じとることができる もうこれは理屈じゃありません つきつめれば毎日の日常がそうではありませんか??
「この公園は?!」 「!」 「団地のやつらだよ… 新しく越して来た奴にはいつもああなんだ」 「ボクも最初は… あ ちっ違うよ ボクは ただ… 違うんだ鉄雄 俺はただ… …あのとき… 友達になろうと思ったんだ…」 「友達…? ボクは… 鉄雄… 島…鉄雄って言うんだ」 「あっ」 「新し…い と… も…」 「待て!」 「だ… ち 友達に…」 「てっ 鉄雄ォ」
なぜ年齢を重ねれば重ねるほど他者を疑ってかかるようになるんでしょうか どうして本当におもっていることを伝えられないんでしょうか こんなに簡単なことがどうしてできないのか 本当は誰もが友達になれるのではないでしょうか それを拒むものは一体なんなのでしょうか どうして複雑にしてしまうんでしょうか 子どものときにできたことがなぜ大人になったらできないのでしょうか 大人になったって熱中が純粋さを引き出します 情熱とも言い換えることができるかもしれません その感覚は子どもの頃と変わらないはずです 本当に生きるということはどういうことなんでしょうか 現実を生きるということは自分を守ることなのかもしれません 認めてもらわなければこの現代、この世界では生きにくいようにできています しかし、自分を守る生き方は壁をつくることに直結します “しなければならない” “で、なければならない” 本当はそんなもの生きて死ぬことにまるで必要のないことです ところが、どれだけの人がそんなものに囚われているのかわかりません “しなければならない” “で、なければならない” これが現代の“生きている”になってしまっている現状 現代社会で生きるには責務がついてまわるからかもしれません お金という価値基準が差別化や個別化を招きました お金のおかげで助けあうことをしなくても生きていけるようになったのです 言い換えれば他人に迷惑をかけない生き方だとも言えます お金があれば限られたつきあいだけで生きていくことができます お金の力は強大です 人を従属させる力がある お金があれば生きていけるからです だからこそ本当の友達をつくるのは難しいのだと思います 迷惑ってなんでしょうか 助けあうことが迷惑なんでしょうか 一方通行であれば迷惑でしょうが、ギブアンドテイクなら迷惑とは言いません 助けあう世界がどれだけ人を豊かにしてきたかわかりません ここで言う豊かさは、物質的なものではなく“こころ”の豊かさです 他者と関わらないことを求める人もいますがこれには矛盾を感じます 他者と関われば関わるほどカルマ(業)が増えるとも言われましたが、 その煩わしさこそが“他者と生きること”に他なりません 頼りにし、されることは人を幸せにするではありませんか 頼りにされれば手助けしたくなるし、頼りにできるならその人みたいになりたいとおもう 自分とは違う生き方をしてきた人がそれを教えてくれます そして、もし友達にできたらもっと幸せになれる気がするのです そのチャンスを自ら閉ざすことはどうしてももったいない気がします わたしのこの方向性は揺らがないでしょう ただしその逆、可能性を閉ざす幸せもひとつの真実だとおもいます 自分が生きることへの余計なもののすべてを排除することができるのです 自分の手が届く範囲を全力でまもり、しあわせにする すべては選択、選択なのでしょう 影響を受けて絶えず変化していく生き方 影響を受けずに自らの意志を貫く生き方 それよりも、そのバランスを探す生き方こそが一番困難かもしれません どれを選んでも一方を否定することはできないのだとおもいます つきつめればどれもたいへんな“正気”がともなうものですよね
長くなってしまいましたが『AKIRA』には終わらない答えがあるとおもいます おかげさまでこんなところまで自分を整理できてしまいましたw
個人的なblogですので偏った文章でしょうが、 自分がどんな方向性なのか、考える足しになればうれしいです
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